グレン・グールド



 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」を見た。わずか1ヶ月の間に、2本も映画を見たのは、学生時代以来であろう。前回取り上げた「1911」よりも、どうしても見たかったのはこちらであった。

 11月1日の『朝日新聞』の評で、この映画の存在を知った。学生時代以来、グールドの音楽に傾倒すること人後に落ちないつもりなので、何とかして見に行きたいと思ったが、こんなマイナーそうな映画を、仙台でも上映するかどうかが心配だった。幸い、「フォーラム仙台」という映画館で上映された(12月9日まで)。

 なんでも、最近になって、グールドの女性関係に関する新しい証言が明らかにされたので、それを重要な資料としながら、改めてグールドの実像に迫ろうとした映画だそうである。こういう場合、映像はダイナミックさを要求されないので、これがなぜテレビ番組ではダメで、映画でなくてはならないのかというのは、少々難しい問題だと思った。

 そんなことはともかく、私はこの映画で、生まれて初めて、生きてピアノを弾いているグールドを見た。思いがけず、この映画は、役者が何かを演じるということは一切なく、グールドの過去の映像と、彼を知る人々の証言によってのみ出来ているのである。グールドがピアノを弾いている場面は、その間中、ずっと肌が泡立つ思いで見ていた。あのグールドのピアノが、音響操作によって作られたものではなく、確かに生身の人間が弾いているものだったのだという、当たり前のことを目の当たりにした驚きと感動は非常に大きかった。もちろん、現在、グールド出演のDVDを手に入れるなど簡単なことなのだが、アナログ主義者である私は、ビデオにしてもDVDにしても、持った時期が遅かった上、使用にも積極的でなかったので、なんとなく見ようとしないままに過ぎていた。もっとも、演奏を聴くだけで満足してしまい、本を読んだり映像を見たりという横道を必要としなかったというのが本当のような気もする。

 私は、録音の残っている時代以降の星の数ほどもいる演奏家の中で、「再現者」ではなく、「創造者」として作曲家と同列に位置づけることが出来るのは、グールドしかいないと思っている。リヒターでもアーノンクールでもクレーメルでもダメだ。だから、女性関係にも、1964年以降1982年に死ぬまでの20年間、コンサート活動を一切止めてスタジオに閉じこもったというスキャンダルにも、あまり興味がない。ルーカス・フォス(作曲家・ピアニスト)の夫人と同居にまで至っていたという事実(実際には同じ家に住んでいたわけではないとも聞く)は、多少の驚きはあったが、ただそれだけである。

 この映画で残念だったのは、最初のうちはグールド自身が頻繁に登場して語るのに、話が進むに従って、つまりグールドの人生が終わりに近づくに従って、グールド自身が登場する場面がどんどん減っていくことである。特に、グールドがコンサートからドロップアウトして以降については、彼の精神の病の進行もあって、残された記録映像も少なく、やむを得なかったのであろう。しかし、いくら音楽映画ではないと言っても、映画の後半が証言で埋め尽くされているのは、私にとっては退屈で残念だった。

 我が家にあるグールドが演奏したCDはわずかだが、それでも20枚ほどある。映画をきっかけに、この10日ほど、それらを聴いている。言うまでもなく彼のバッハは全て素晴らしい。間違いなく永遠の価値を持つ。グールドのような解釈を生み出すことは難しくても、今時のピアニストなら、グールドの真似くらい出来そうなものだが、そうではないらしい。そこが、グールドのすごいところだ。世間の評価と私の評価は基本的に同じで、「ゴールドベルク変奏曲」(私は1955年録音より1981年録音の方が好きだ)と「パルティータ」「フーガの技法」がベスト3だと思った。一方、忘れかけていたが、今回聴いてみてバッハの次にいいと思ったのは、現代音楽である。私の持っているCDで言うと、ベルク、シェーンベルク、クシェネクのソナタを集めた一枚はいい。人並みにも、私は現代音楽が苦手だ。しかし、グールドの歯切れよく鋭利な音が、現代音楽のある種の冷たさによく合っていて、グールドで聞く時だけ受け入れ可能となる。「ゴールドベルク変奏曲」を聴いている時に、私がバッハを聴いているのかグールドを聴いているのかは判然としないが、クシェネクのソナタを聴いている時、私が聴いているのは、クシェネクではなく、グールドなのだと思う。