教研は夜作られる



 昨日、金〜土に台が森温泉に行った話を書いたが、土曜日は温泉を9時半に出ると、私は仙台市内に向った。2月18〜19日に行われる「教育講座」という教職員組合主催の教育研究集会(教研)の実行委員会に出席するためである。

 私は、人間が学ぶという時に、「任意性」というのは非常に大切だと思っているので、主催がどこであれ、任意の学習会は大切にしたいと思う。教職員組合も、この20年余で信じられないほど弱体化してしまい、それに伴って教研も衰退の一途をたどった。私が教員になった時には、組合教研として、宿泊を伴うものが確か4種類(年にのべ9日か10日)存在したと記憶するが、それが今や「教育講座」1種類になってしまった。原因は、教員の多忙と主体的な学習意欲の低下。そして、その背後には、あらゆる教育問題の原因(諸悪の根源)となっている行政による教育の「管理統制」がある。しかし、自分たちの側に原因がないかというと、決してそんなことはない。

 私は、会の最後に、以下のような発言をした。

 「かつて「教研は夜作られる」と言われ、分科会でどのようなことを学ぶかとは別に、夜、酒を飲みながら人間関係が広がり、それを通して、教研の時以外にもいろいろなことを学ぶことが出来た。今は、人間関係が希薄な世の中を私たちも反映して、分科会ではそれなりに話もするが、会が終わればそれでおしまい、という状況があるのではないか。

 夕食時に行われるイベント形式の交流会では、人間関係は広がっていかない。その後、どこかの部屋に集まって、私たちが、若い先生に積極的にいろいろな人を紹介して関係を作っていくことが必要ではないか。昔は、職場の先輩が、いろいろな先生を紹介してくれたはずである。これは、新しい企画を立ち上げるという形式的なことではない。私たちの気持ちひとつで出来ることだと思う。」

 つまり、私たち(特にいまだに組合などに所属している人間)は、学ぶことと人間が好きで教員になったはずなのに、他人と関わり合うことを面倒と感じる傾向は、社会全体がそうであるのとまったく同様に存在する。「プライバシー」などという、人と関わることを阻む言葉がでかい顔をしているという事情もあるかも知れない。人間の疎外という問題は、正に自分たち自身の問題としてあるのである。

 人間関係は煩わしいものである。しかし、私がよく言う「文化の質は掛けた手間暇に比例する」という格言は、この場面でも有効だ。煩わしい人間関係を作り維持していくことは、その手間暇に比例して大きな価値を生むに違いない。先日の手書き学級通信の話とよく似ていて、生身の人間同士が顔をつきあわせて関わり合うことは、おそらく、そこで言葉によってやりとりされるよりもはるかに多くの情報をやりとりすることになるのである。

 「教研は夜作られる」という言葉には、さりげなく、そんな思想が託されているのだと思う。なかなかに含蓄が深い。果たして、今年の「教育講座」が、多少なりともそんな「夜作られる」教研に戻れるものかどうか・・・?少し楽しみにしていようと思う。