『マグロ船仕事術』



 一週間あまり前、私のすぐ近くに机のあるマリンテクノ類型所属の実習船指導教員M先生が、何やら熱心に本を読んでいた。そっとのぞき込むと、『マグロ船仕事術』(齊藤正明著、ダイヤモンド社刊)という本であった。さすがは実習船指導教員。1月12日からの次の航海に備えて、新たな学習に余念がないなと感心しつつ、私自身の好奇心がうずき始めたので、「その本面白いですか?読み終わったら貸して下さい。」とお願いし、一昨日からその本は私の手元にある。

 読み始めて間もなく、何これ?!と思った。船やマグロ漁の具体的方法について書いてあると思っていたのに、全然違うのである。そういう話もないわけではない。しかし、中心は明らかに人間関係やリーダーシップといった問題なのである。ここで、改めて表紙を見てみると、「日本一のマグロ船から学んだ!マネジメントとリーダーシップの極意」「職場が活性化する38のヒント!」と小さく副題が付いている。私は最初、「マグロ船」という言葉にトキメキ、その結果として勝手に内容を想像し、そんな副題は目に入っていなかったのだ。

 期待はずれだと思ったのも一瞬、これが実に面白い。書いてあることも面白いが、大分弁らしき船員(主に船長)と標準語を話す著者の会話が、非常にいい味をだしている。船員の言葉に含まれる、人間についての深い洞察や、人間関係についての見識が、書物による知識ではなく、マグロ船の中で自分自身によって得られたものであることも、この会話の妙によってリアルに感じられてくる。一例だけ挙げておこう(ベストな選択だという保証はない)。


「人はみんな、『自分のやり方が一番じゃ』って思うちょる。けんどの、自分が正しいと思うことを、『こげーしぇえ』って命令しすぎんとの、よけい人間関係おかしくなんのよ」

「じゃあ、指示とか命令はしないんですか?」

「いや、言うんは言うんよ。でもの、言っても聞かん思うちょる。言うてみりゃ、マグロに話しかけてると思うちょる」

「な、何ですか、それ?」

「マグロに、『牛乳買っちょいてくれ』やら言うても、マグロは牛乳なんて買いに行きよらんじゃろ?」

「そりゃ、人間じゃないですから、言葉通じないですよね」

「人間同士は、見た目が同じじゃから、つい無意識に言ったことが伝わると思い込んじょる。でもの、実際は、自分と相手っちゅーんは、人間とマグロくらい違うもんじゃ」

「な、何がですか?」

「う〜ん、『考え方』じゃろうな。人間、これまで生きてきた常識ってもんがあるじゃねーか。たとえばぞ、マグロ船ばかり乗っちょるおいどーと、大学出よる齊藤とは、見た目は人間同士でも、考え方とか常識やらはまるで違げー。その違いはの、いっくら説明しよってもわかり合えんのを、おいどーはよく見ちょる」


 あまり面白いし平易なので、一日一回ずつ読み直し、その確かな人間観察に基づく人間関係の知恵とも言うべきものに、すっかり感心してしまった。どこの漁船でも、この本にあるのと同じ状態であるかどうかは知らない。しかし、この本に描かれたマグロ船の実態が普遍性を持つものだとして、では、一体なぜ船員達はこのような知恵を手に入れたのだろうか?と考えてみるに、重要な要素は以下の三つである。

1:1ヶ月以上、狭い船内で同じ人間とだけ付き合っている。

2:何があっても、自分たちで解決しなければ、命の保証がない。

3:自然が相手である。

つまり、不便で窮屈であり、思い通りに行かないということが、知恵を身に付けるのに格好の環境になっているのだ。これは、裏返せば、豊かで便利でわがままな今の私(達)の生活では、本物の知恵は生み出せないということを意味しているように思う。私のように、何かにつけて書物を頼り、書物を信じようとすることの浅はかさを、鼻で笑われているような気がし、それがまた快感でもあった。