「震災」という大義名分



 先週の土曜日は、娘の通う門脇小学校の授業参観、PTA総会があって出席した。

 総会では、PTAの会則改正が提案された。その中でも、「地区会の設置並びに運営に関する規定」は全面削除という大規模なものだった。提案したしかるべき地位にある某氏が、提案理由を一切述べずに、資料を見れば分かるような改正の中身だけを簡略に述べ、議長は参加者席を見もせずに拍手による承認を求めたので、私は、それは乱暴だから提案理由くらい説明して欲しいという意見を述べた。震災によって人の移動が大きく、地区活動が成り立たないということが簡単に説明された。周りの出席者は、面倒なことを言って会議を長引かせる、と不満の体であった。

 日曜日の夜は、地区PTAの総会があった。妻が出席した。前日あっさりと廃止が決められた地区のPTAであり、地区の子供会と表裏一体の関係にある。諸般の事情で、活動を完全にやめるわけにはいかないが、廃品回収と町内会が主催する夏祭りへの参加以外は、歓送迎会もレクリエーションもラジオ体操も基本的にすべて廃止。意見らしい意見も出ず、ごく当たり前のように、淡々と決まったそうである。

 私は、変だな、と思う。確かに、今までにも書いたとおり、門脇小学校学区は、おそらく3分の2以上が流失という甚大な被害が出て、そこに住んでいた人々は各地の仮設住宅や市外に分散してしまった。しかし、日和が丘、南光町といった無傷の場所もある。我が家はその無傷な場所にあって、我が家が所属する地区には、無傷の家しかない。人口の流出もゼロである。仮に大人の地区PTAが廃止されたとしても、子供会まで道連れにする必要は何もない。

 各地の町内会が衰退しているのと同様に、地域のつながりは極端なまでに薄れ、様々な活動が円滑に、充実した形で行えなくなっていた。民主主義などというものは、集団の大小に関わらず有名無実化している。そこに今回の震災があった。どうせ総会だ、形式的に承認を得ればよい、というPTA総会の議事運営にしても、無傷な地区の総会にしても、みんながこれ幸いと飛びつき、「震災でこうなってしまったんだから仕方ないよね」という言葉を伝家の宝刀として振り回し、面倒なものを、もはや議論とは呼べないほど杜撰な議論で廃止していったと見える。

 震災によって、改めて地域社会の大切さが分かったみたいな話もよく耳にする。それも決して嘘ではないのだろう。しかし、震災を大義名分として、煩わしい地域社会を消し去ろうとするのも事実としてある。おそらく、被害は大きかったが復旧させられる可能性のある地域では、地域社会の大切さが叫ばれ、復旧できない地域と無傷の地域は、地域社会の崩壊を進める、ということなのだろう。これは、地域社会という問題だけではなく、他のいろいろな場面でも起こっているのではないだろうか?津波によっても地震によっても社会は壊れたりしない。住む人々の意識によって崩壊するのである。そう。あらゆる組織の崩壊は内部崩壊なのだ。