ポリフォニーの力



 昨日も書いたが、連休後半は実家に帰っていた。妻の実家ではなく、自分の実家なのであるが、あまり居心地がいいとは言えない。特に、妹が帰っていると、女手がたくさんあって、普段は典型的または模範的「育メン」と思われる私に仕事が回ってこない。子どもたちは、新鮮味に欠けるからか、私には寄りつかず、私の母や妹にべたべたと甘えている。かといって、これ幸いと部屋にこもり、読んだり書いたりしていていいかというと、これまたなんとなく気が咎める。仕方がないので居間にいて、新聞に目を通しているかピアノを弾いているか、ということになる。それでも、おそらく家族には嫌な顔をされていることだろう。

 ピアノは習ったことがない。自己流である。時間だけは膨大に費やした。上手くならない。それでもなんとなくピアノに向う。

 手は自然とバッハの「インベンションとシンフォニア」の楽譜に伸びる。一応、初級者もしくは中級者用の曲集ということになっているが、これがなかなか手強い。それでも不思議なのは、あちこちで躓きながらでも、いや、ぽつりぽつりと音を拾っているだけでも不思議と退屈しないことである。クレメンティやクーラウのソナチネでも弾いていた方が、よほど流麗に「音楽」しているように聞こえるはずであるが、こちらはすぐに退屈する。モーツァルトショパンなら、躓きの回数が増えるのでなおさら嫌になる。

 ソナチネはCDでも練習用くらいしかお目にかからないが、インベンションは名だたる大家も含めて多くの鍵盤楽器奏者(←なぜ私が「ピアニスト」と書かないか、というのは重要)がCDを出しているくらいだから、芸術性そのものに根本的な違いがあるのは確かだ。だが、モーツァルトショパンに比べて、バッハの方が圧倒的に質が高いと言えるだろうか?いや、言えないだろう。だから、芸術性が高いから退屈しない、というのではないのである。

 私は、インベンションを弾く楽しさは、ポリフォニー(多声音楽)という構造の力にあると思っている。音楽はモノフォニー(単旋律)を別にすると、ポリフォニーとホモフォニー(和声音楽?)に分かれる。ごくごく簡単に言うと、ポリフォニーというのは、ピアノで言えば、右手と左手に別々に旋律があって、それが絡まり合っている様式(フーガがその典型)、ホモフォニーは右手で旋律、左手で伴奏という様式(ワルツが典型)である。不思議なことに、構造的により一層複雑と思えるポリフォニーの方が歴史は古い。バッハの音楽はほとんどポリフォニーだが、モーツァルトやベートーベンはホモフォニーが基本である。どちらが難しいとは一概に言えない。しかし、ポリフォニーの方が、右手と左手を別々に動かすという意味では難しいと言えるかも知れない。

 右手と左手に別々の旋律が出てくる。或いは、一つの旋律が、右手と左手に分かれて追い掛け合いをしたかと思えば、片方の手だけが反転し、時に重なり合う。その複雑さが、弾く人・聴く人に強い集中力を作り出して飽きさせないのだろう。何とも言えない快感にもなる。昔の人は、そのようなポリフォニーの効果を間違いなく意識して、音楽を作っていたと思う。

 では、なぜ人がポリフォニーを捨ててホモフォニーに移っていったのか?それは退化ではないのか?それは今のところ分からない。