携帯電話のない生活



 携帯電話を解約して3ヶ月あまりが経った。持たないとどうなるのか、ということについて、少し書いておこうと思う。

 基本的に不便は何もない。お金がかからないこと以外にも、メリットはたくさんある。生活は邪魔されなくなったし、さして必要でもない情報のやりとりがなくなった。何かにつけて、家族と連絡を取り合っていた時には、帰りが少し遅れるだけでも、連絡がないといらいらしていたのに、それがピタリとなくなった。「携帯がないんだから仕方ないや」と思い、気にならなくなったのである。固定電話は自宅にあるわけだから、そちらにかけて来なければいらいらしても不思議でないのに、なぜか気にならない。それほど「携帯がない=連絡は取り合えない」という意識は、強く染み付いている。家族の側でも、同様の思いらしい。これは精神衛生上すこぶるよろしい。

 私は、マジックミラー越しに部屋の中を覗いているような立場である。他の人の携帯電話の番号が分かっていれば、私は電話をかけることができるが、相手は私にかけることが出来ないからである。これは少しズルイかも・・・。

 公衆電話というものも、思いの外たくさん残っている。昔から持っているテレホンカードが、なぜか使えたり使えなかったりするのは少しいらいらするが、基本的に公衆電話で不自由はない。こういう場合は困るな、と思うのは、例えばバスに乗っていて渋滞に巻きこまれ、待ち合わせの時間に間に合わない、というような場合に、連絡が付けられないくらいだ。これとて、実際にそういうことが起こったわけではない。バスや電車に乗っている最中に、少しそんな想像をしてみた、というだけである。

 困ると言えば、最も不自由を感じたのは、人の電話番号の管理である。職業柄、私はいつでも生徒の電話番号が分かり、電話がかけられる状態になっていないと困る。ところが、紙に書いた電話番号メモを持ち歩くのは、個人情報云々ということが厳しい昨今、非常に危うい感じがする。メモをどこかで落とせば、マスコミのいい餌食になりそうだ。

 携帯電話のようにパスワードのかかるハンディタイプの住所録なんて売ってないかなぁ、とぼんやり思っていて、ふと思い出したのは、今回盗難に遭う前の携帯電話である。昨年4月半ばまで使っていた先代の携帯電話を、なんとなくデータが流出しそうで不安だという思いから処分せず、自宅の引き出しに入れっぱなしにしていた。よく考えると、既に電波こそ出していないものの、電話・メール以外の機能、すなわち、住所録やアラーム、電卓などの機能は使用可能のはずである。幸い、今受け持っている生徒の電話番号等も入力した後に電話機を変えたので、それらは残っている。使ってみると、すこぶる便利である。しかも、ずいぶん電池がへたってきたな、と思って機種変更したにもかかわらず、電波を出していない、かかってくることもない電話機の電池というのは、びっくりするほど長持ちするものである。月に1度も充電すれば、それでよい。今、私はそれを持ち歩いている。人目に触れて、「結局また買った訳ね?」などと尋ねられると説明が煩わしいので、出来るだけ出さないようにしているだけだ。

 何でも、もともと無かったものがあるようになると、最初のうちはあることが特別であったのに、いつの間にか、「ないと駄目」になってしまう。携帯電話を手放すと、それがいかに下らない思い込みであるかがよく分かる。おそらく、このことはあらゆるものに当てはまるだろう。何でもそんなものだと思うと、気が楽だ。


(解約した時のことは3月20日の記事参照)