ロゴセラピーによせて(1)



 あまりにも目先の利益に振り回されて自縄自縛に陥っている社会への反動として、年々「役に立つ」ことに積極的に背を向ける傾向の強まっている私だが、正月休み、宴会の続く隙間を狙って、「教育者としての資質の向上」のために(笑)、「ロゴセラピー」なるものの勉強をしてみることにした。生徒に対し、生き方についてどのような問題提起の仕方をするのがよいのかについては、柄にもなく、日頃から少しは悩んでいるつもりである。加えて、年末、知り合いからいくつかの「ロゴセラピー」についての文献を送ってもらったこともあって、そんな気になったのである。「お礼の代わりに、いずれこのブログに何か書くことにします」と返信したきり、1ヶ月半以上が経ってしまった。ロゴセラピーの理論そのものは、さほど難しいとは思わなかったが、強い共感と退屈とを同時に感じたので、その矛盾した心性を見つめるために時間がかかったということである。

 「ロゴセラピー」とは、「ロゴス(意味)」+「セラピー(治療法)」による造語である。直訳すれば「意味療法」となる。提唱者は『夜と霧』の作者としてあまりにも名高いオーストリア出身の精神医学者、ヴィクトール・エミール・フランクルで、『意味による癒やし ロゴセラピー入門』の監訳者・山田邦男氏によれば、「人生の無意味感に悩んでいる人に対し、いかにすれば生きる意味を発見し、充足させられるかを提示する療法」である。つまり、「人生の無意味感に悩んでいる人に対し」、外側から何かを与えたり、することで悩みを解消させるのではなく、自分自身が「生きる意味を発見し、充足させられる」ようにヒントを与え、導く術がロゴセラピーということになる。

 今までこのブログを丁寧に読んで下さっていた方は、私が、「人は自分自身の力でしか成長できない」「人間は内側から支えられている限り非常に強い」というような発言をさんざん来り返してきたことをご存じだろう(2011年10月26日や11月29日、あるいは2008年1月21日や2009年1月8日の記事参照)。

 これは、ロゴセラピーの基本的立場そのものだと思う。上の山田氏の言葉もそうだし、フランクル自身の言葉にも、「人生には意味があるのだと知っていることほど、最悪の条件にあってすら人間を立派に耐えさせるものはほかにありません」(同前)とある。

 私がロゴセラピーを、強い共感を持って受け止めたのは、このような事情によっている。私が目指してきた方向性は、フランクルのそれと一致しているのである。

 では、なぜ私が退屈を感じたのだろうか?それは、自分が今まで勉強してきた人たちの思想と、フランクルの考えが基本的には同じで、本当の意味で新しい発見がなかったからである。

 私が、人間の内面にひときわこだわる思想と初めて出会ったのは、大学に入って間もない頃だった。きっかけは小林秀雄の、多分『Xへの手紙』であったと思う。

 「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてこの世を理解していこうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。」

 (注:小林が女との同棲生活に破綻を来たし、逃亡した直後に書かれたからこう書かれているのであって、私に同様の体験があったということを意味しない。変な詮索をせぬように(笑))

 「すべての書物は伝説である。定かなものは何物も記されてはいない。俺達が刻々と変わって行くにつれて刻々と育って行く生き物だ。」

 人は書物によって学べない、自らの体験に即して、自ら学んでいくしかなく、それによって書物も意味を変えてゆく。幼い頃から強い読書癖を持ち、それを自らのよって立つ基盤と考えていた私は、おそらく、この時期の自分自身の何かしらの体験とこれらの言葉によって自我の重要性を意識するようになり、人は思想や感性を外から借りてくることなど出来ないのだ、と思うようになったのである。(続く)