ロゴセラピーによせて(2)


 小林秀雄と出会って以後、私自身の興味関心は、歴史や政治といった事実に即した何かよりも、それについての思想を生み出す根源(衝動)のような部分(自我・主体性)に向かうことになった。ある人物が何を生み出したかよりも、どのように生み出したかの方に関心が向いた、と言った方が分かりやすいかも知れない。そのために、人間として特に引かれたのが、大学時代に研究した王陽明とその思想の継承者達であり、後々ついに一書となった高村光太郎である(私における両者の関係については、2011年4月10日記事参照)。

 一般に陽明学と言われる王陽明の思想とは、「致良知説」というたった4文字で表現されたものである。全ての人間の心に「良知」という絶対の規範が内在していると仮定し、その能力を発揮させることが正しい生き方になるのだ、正しい考えを外から取り込むのではないのだ、というのがその内容である。

 高村光太郎が自らの姿勢を示す言葉として終生語り続けた言葉に、「原因に生きる。結果は知らない」というものがある。今その瞬間にどう考えるか、どのような判断を下すことが正しいのか、自分の関心はその点にのみあって、結果として生み出された考え方がどのようなものであるか、まして人がそれをどう評価するかにはまったく関心がない、という意味の言葉である。「原因に生きる」というのは、陽明の致良知説と同内容だと考えてよい。

 陽明について学んでいた時、故島田虔次氏の長大な論文「中国近世の主観唯心論について〜万物一体の仁の思想」(『東方学報』第28号、1958年)に出会った。氏はこの論文の中で、規範の源を人間の心に求める思想を「主観唯心論」とし、中国近世の思想において進歩的(反体制的)と言えるこの思想(陸象山・王陽明など)は、人間の心を非常に重視する一方で、「万物一体の仁」という、この世は「仁(愛とエネルギーを融合したようなもの)」によって貫かれた一体のものであるとする考え方を必ず持つという特徴があることを指摘している。

 一方、高村光太郎においては、それに相当するものとして「自然」がある。「自然」はもちろん、高村の外にあり、彼を取り囲んでいるものであるが、彼は、それを道徳の源として扱う。

 陽明に「万物一体の仁」があり、高村に「自然」があるのは、けっして偶然ではない。島田氏は「仁」の愛よりもエネルギー面を強調するが、私はそうではないと思う。陽明や高村のような自我への執着は、それがひとたび暴走すると、強い独善に陥ることになる。彼らはその危険性をよく知っていて、それを回避するために、あえて良知・自我の働きを牽制する役目を負わせることの出来る「万物一体の仁」や「自然」を持ち出すのだ。

 では、再びロゴセラピー=フランクルの思想に戻ってみよう。そこには、「万物一体の仁」や「自然」に相当するものがあるだろうか?ある。それは、「自己超越」とか「自己観察消去」という言葉に表れている。

「私が強調したいのは、真の人生の意味は世界のうちに発見されるべきものであって、あたかも閉じられたシステムであるかのように、自分の内部に、自分自身の心の中に見出されるものではない、ということなのです。(中略)人間存在の本質は、自己実現ではなく、自己超越性にあります。」(『意味による癒やし』)

 つまり、王陽明高村光太郎フランクルの考え方は基本的に同じ構造をしている。では、彼らの違いは何なのか?

 それは、「言葉」というものの性質を考えてみるとよく分かる。「言葉」は対象と目的が想定されている。王陽明の場合、それは曲解され御用学問化していた朱子学に染まった人々であった。高村光太郎の場合、本当の「美」に目覚めることの出来ていないヘボ彫刻家達であり、時には自分自身であった。フランクルの場合は、神経症を病む患者達であった。言葉によって、陽明は「道学先生」たちを目覚めさせ、硬直し形式主義的となった世の中を活性化しようとした。光太郎は、質の高い造形美術を生み出すことや、自分自身を支え、見つめることを目的として語った。フランクルは、治療が目的だった。それぞれの背負って立つ文化や、語る対象と目的とが異なるために、細部には様々な表現上の違いが生じているが、自分の内面の重視=その暴走を食い止めるより大きな価値の設定、という自我の思想としての枠組みは同じである。

 では、ロゴセラピーにおいては、そのような思想の枠を、どのようにして神経症治療に利用しているのだろうか?私は、送ってもらった3冊の『日本ロゴセラピスト協会論集(以下『論集』と略)』と若干の雑誌掲載論文によって、いくつかの実践例に触れることが出来たのだが、正直言って、そこには「治療」という言葉によって思い起こされるマニュアル的なものは、ほとんど見つけることが出来なかった。むしろ施術者の良識や人柄というものの問題が大きい。

 思うに、人間は内側から支えられ、成長すべき存在であることが、まず第一に施術者の側の思想として確立されており、それを他人に押しつけるのではなく、自分がすべきことは、それが他人においても実現されるようにヒントを与えるだけだという配慮さえあれば、一つ一つの言葉の中に、自ずからロゴセラピー的な内容が含まれ、結果としてロゴセラピーを施すことになるのだ。大切なのは、患者に何かを与え、何かを強制することで、問題の解決を図るのではなく、患者自身の考えと力とを尊重し、それを引き出し、患者自らが問題を乗り越え、価値を実現させられるように導くことが大切なのである。そのための決まった方法はない。相手の表情を読みながら、その場で最善の方法を探していくしかないのである。

 この考え方に従えば、自分自身の生きる意味に目覚めた人は、問題が根本的・自立的に解決するが、そのように進まない人が生まれるリスクも少なからずある。だが、それは仕方がないことなのだ、という諦念を持つ必要があるだろう。そして、相手が意味に気付くまで、粘り強く付き合うしかないということになる。

 ロゴセラピーの考え方は正しい。だが、それを学ぶことによって、自分の外側にロゴセラピーという便利な道具があるかのように考えてしまうことは、逆にロゴセラピーから離れることになってしまう。私がロゴセラピーの文献を読むことによって感じた共感は、思想の枠組みと行動の方向性に対する同意であり、退屈は、文献によって学べば学ぶほど、ロゴセラピーを外在の思想として取り扱ってしまうことからくる、自己目的化によっている。それが、私の思ったことである。(完)