ベートーヴェンの「変ホ長調」



 一昨日、ベートーヴェンの「ハ長調」の曲について少し書いた。「ハ長調」の次は、やっぱり「ハ短調」なのだろうか?いや、私の感覚では、次は「変ホ長調」である。

 変ホ長調と言えば、交響曲第3番「英雄」とピアノ協奏曲第5番「皇帝」が圧倒的に有名なので、他はかすんでしまいそうだが、なかなかどうして、ピアノソナタ第26番「告別」、弦楽四重奏曲第10番「ハープ」、第12番、五重奏曲、六重奏曲、七重奏曲といった佳曲がある。全体的な傾向から言って、「皇帝」が書かれた前後に変ホ長調が多い。

 「皇帝」という標題は、ベートーヴェンの預かり知らない後人による命名なので、気にしない方がいいのだが、骨太で堂々とした風格の曲が多い。ベートーヴェンという人は、権威・権力におもねることがなく、自らの感性と信念に基づいて生きた人であると思う。

 例えば、ナポレオンが帝位に就いた時、憤激のあまり、民衆の解放者としての彼に献呈しようとしていた「英雄」の献呈を取りやめ、表紙を書き換えたというのは有名な話である。また、フランツェンスバートというボヘミアの温泉で、ベートーヴェンは、ゲーテを批判する次のような手紙を書いている。

 「ゲーテは一個の詩人たるにふさわしからぬほど、宮廷の雰囲気が気に入っています。一国の師表とみなされるべき詩人たちが、こうしたかびくさいもののために他のすべてを忘れるようでは、この地ではもはや名人どもを物笑いの種にするようなことは止めるほかないでしょう」

 また、ワイマールで二人が散歩をしていた時、皇族、廷臣の一行と行き会わせると、ベートーヴェンゲーテに「あの人たちが私たちに道を譲るべきです。断じて我々のほうからではありません」と語って、そのまま貴族たちの真ん中を通り抜けながら、帽子の縁に少し手を触れただけだったが、ゲーテは帽子を脱いで道の脇に控えた(以上、青木やよひ『ゲーテベートーヴェン平凡社新書、2004年による)。

 社会常識を身に付けたゲーテと、非常識なベートーヴェンと見ることは簡単である。しかし、芸術というものが人間の本質に常に向き合わなければならないことを考えると、地位とか肩書きの軽視は、むしろ芸術家にとって大変大切な資質であるとさえ言えるのではないか?逆に言えば、世俗的な価値観から自由であって初めて、人間にとっての真実・本質に向き合うことが可能になる。

 だから、ベートーヴェンがヒロイックな雰囲気を感じさせる曲を書いたという場合、それは世俗的な実在の権威に対する支持や憧れを表明したものではなく、彼自身が求めるもの、例えば人類愛、を人々にもたらしてくれる理想的ではあるが実際には観念でしかない権威に対する支持や憧れを表すものと考えられる。そして、それは変ホ長調の曲なのである。

 「ハ長調」は純情素朴・聡明、「変ホ長調」は正義への憧れ、これらの曲を聴く時、ベートーヴェンの特質がもっとも明瞭に伝わってくるのを私は感じて、快感である。