ギターあれこれ



 既に1ヶ月近く前の話になるが、5月22日、中林淳真(なかばやしあつまさ)という老ギタリストの、小さなリサイタルに行き、終演後、出演者・主催者と一緒に酒を呑んだ。

 私にとってこの時まで知らない人だったのだが、日本人ギタリストとして初めてカーネギーホールでリサイタルを開いたという、なかなか高名なギタリストらしい。昭和2年生まれで、御年85歳。さすがに年齢から来るのであろう技術的な衰えは激しいと見えたが、それでも85という年齢を考えるに立派なもので、特にメキシコ音楽を素材とした自作の曲はよかった。

 1960年頃の4年くらい、ナルシソ・イエペスに師事していたことがあるという話を聞き、活動の中心がスペインとメキシコだったとも聞いたので、酒席で、ロドリーゴ(1901〜1999、「アランフェス協奏曲」の作曲者)に会ったことがありますか?と尋ねてみた。「もちろん」といった顔で、自分のホームページには、ロドリーゴと腕を組んでアランフェスを歩く写真も載せている、と答えた。ユパンキ(1908〜1992)とも昵懇で、ユパンキは何度となく自宅に来たそうだ。

 イエペスとかロドリーゴとかユパンキといった、私にとっては既に歴史上の人物に近い人たちと付き合いのあった人が目の前にいると、不思議なオーラを感じるものである。そんな人から、彼らについての思い出話を聞けたのは、なんとも感動的なことだった。

 久しぶりでギターの音と音楽とに触れ、ロドリーゴイエペスの思い出を聞いたので、何となくギターの音楽が懐かしくなって、さほど多くもない我が家のギターCDをあれこれ聴きながら、1ヶ月近くが経った。約1ヶ月目に『セゴビアの芸術』と題された2枚組を聴き終えたところで、一段落付いたような気分になった。同じスペイン出身の巨匠として、私の頭の中ではセゴビアとチェロのカザルスが妙に重なり合う。そして、このような人間的にも雄大なスケールを感じさせる巨匠というのは、畑に関係なく、今後なかなか出ないような気がするのだ。セゴビアを聴いた後には、しばらくの間、もう他の人のギターを聴く気にはなれない。

 ギターという楽器は、西洋音楽の世界では決してメジャーな楽器ではなく、イベリア半島中南米でいわば民族楽器のような形で生き残ってきた。ギタリストたちは、ベルリオーズの「ギターは小さなオーケストラである」という言葉をよく引用するけれど、肝心のベルリオーズがギターのための曲を一曲も作っていないのだから、あまり信用ならない言葉である。私には、ベルリオーズがどのような意図で口にした言葉なのかもよく分からないが、なにもギターにそんな複雑な機能を期待しなくても、ギターには十分にギターの良さがあるではないか、と思う。私はその素朴な音色が好きである。緩く張られた弦を指ではじいて音を出すと、大きな胴の空間の中に音がふわっと響く。オーケストラに含まれる楽器のような大きな音は出ないが、素朴で温かみのある音である。それは、田舎くさいとも、古風であるとも思われる。

 なんとなく神経が疲れた時などに、そんな音をぼんやりと聴いていると癒やされる。