数字はやっぱり恐ろしい



 今、授業で「授業評価」というアンケートを取っている。無記名で、「授業の説明は丁寧で、理解しやすい」「授業の内容は興味・関心が持てる」など10の項目について、ABCDから一つを選び、○を付けるというものである。これを、自分が授業に行っている全てのクラスで生徒に書かせなければならない。

 県内の学校でこの手の調査が行われるようになって、10年以上になるのではないかと思う。7月に、この話が今年初めて会議に出た時に、言っても無駄と知りながら、私はこんな調査はやめればいい、と発言した。私の言い分は、「紙の無駄」である。そもそも、授業の内容が理解しやすいかどうかなんて、考査の結果を見れば分かる。授業の内容に興味関心が持てるかどうかなんて、授業中どれくらいの生徒が机に突っ伏して眠り、顔を上げている生徒の表情がどうか、ということを観察していれば分かる。高校というのは、マイクを使って500人を相手に授業をしているわけではなく、人間関係はなはだ濃密な場所だから、授業外のいろいろな場面で、授業の感想、理解の度合いも含めたいろいろな話を個人的にすることもできる。それをわざわざ、膨大な量の紙を使い、準備から集計までの作業を増やしてする必要があるのか、というのである。各クラスには、週に12種類くらいの授業がある。生徒数は約400名だから、消費される紙の量はA4のざら紙約5000枚である。それによって得られるものが、その消費に見合うのか?私には疑問だ。

 ところが、会議では、例によって私の支持者はいない。多くの教員が、日頃のくだらない事務仕事によく愚痴をこぼしているわけだから、多少の支持者はいるかと思ったが、そうではなかった。それでも、さすがに次の発言にはびっくり仰天してしまった。

「日頃、自分がどのような授業をしていて、生徒がどう思っているのかを客観的に知ることが出来るという意味でやる価値はあるだろう。」

 私が驚いたのは、「客観的」である。生徒の理解度を知るのであれば、考査の成績を見た方が、「客観的」であって、生徒の実感など当てにならないと思う。そもそも、生徒が真面目に書いていない場合が少なくない。なぜなら、全ての項目で、Aの欄だけに乱暴な○が書いてあったり、それがDの欄だけだったり、デザインをするようにABCDCBABCDやABCDABCDABなどジグザグだったりするからである。○○先生だから全部Aにしておこうとか、△△先生だからDだとかいった、項目の内容とは必ずしも関係のないような感情的な採点も多いだろう。このデータが一人歩きをしたら、使用の仕方に関係なく、嫌だなと思う。

 「客観」とは難しい概念で、何が「客観的」なのかは説明や判断に困る場合も少なくないが、基本的に「当事者の心のあり方に左右されない」ということが重要な要素ではないか、と私は思っている。だとすれば、授業評価のデータには何の客観性も無いに等しい。おそらく、「客観的」と言った人は、それが最終的に数値化されることによって「客観的」だと思ったのだろう。数字というのは本当に恐ろしいものだな、と改めて思う。もともと主観的なものが集計され、数字に変わると、それだけで突然「客観的」なものに見えて、力を持ち始める。それに振り回されるのは悲劇である。世の中には、そんな数字がたくさん出回っているに違いない。