仕方のない「民主主義」



 特定秘密保護法が成立した。私が今更付け加えるべき論点などないし、私自身がこの法律をよく理解できているとも思えない。ただ、今も公務員は守秘義務を負っているのに、これだけ闇雲に成立を目指したということは、よほど秘密にしたい重大事項があるのだということに、本能的な危機感を感じるだけである。また、今日の『朝日新聞』の社説は、問題を非常に簡潔・適切に示した好論だったと思う。特定秘密保護法は、この法律だけで考えてはダメで、安倍政権が発足して以来の、内閣法制局長官更迭(集団的自衛権を認めようとする)→NHK経営委員の人選(メディアコントロールを目指す)→特定秘密保護法という流れの中で、その意味を考えなければならない(本当は日本版NSCの発足も加えるべきか・・・)。

 ところで、この数日の新聞記事の中から、少し毛色の違うものを取り上げ、若干の考察をしてみたい。昨日の『読売新聞』に載った、政治部次長・松永宏朗氏による署名記事「民主主義誰が「破壊」?〜多数決の否定はおかしい」というものだ。ちなみに、参議院の委員会で強行採決が行われた翌日に当たるこの日、『毎日』『朝日』は、社説も含めて大々的に批判調の記事を載せていたが、『読売』は静かだった。

 さて、その記事によれば、「法案が最終的に多数決で決まるのは当然だ、自民・公明は政府案のままで法案を通すことも可能だったのに、みんなの党や維新の修正要求に応じた、その決定に問題があるなら、選挙の時に政権を交代させるべきだ、にもかかわらず「民主主義の破壊」などと批判する人たちがいるとすれば、それは「国民の代表者」たちの中の多数を無視して、少数者の言うとおりにしろ、ということだ」ということになるだろう。果たしてこれは正しいか?

 私は論点がずれていると思う。特定秘密保護法に反対の人たちが「民主主義の破壊」と言う時、それは採決の仕方よりも、むしろ法案の中身についてだと思う。秘密を増やすことは、民主主義の根幹である選択のための情報を失うことになるからだ。物事の是非を考えるためには、情報が必要で、情報を取り上げられてしまえば、政治家の決定の是非を問い直すこと自体ができなくなるのである。

 一方で、この記事にはある正しさもある。確かに、与党が有権者全体の何%の票を得て与党となっているのかといえばお寒い限りだし、選挙の争点は多岐にわたるので、選挙で投票していても、その全ての公約に賛成していることにならないのは当然、まして白紙委任をしたことにはならない。だが、やはり彼らは国民の代表者なのである。最終的に多数決で物事を決めるのは正当(やむを得ない)だし、その批判は次の選挙でこそ行われるべきだ。

 よい世の中を作るために最もよい政治体制は、有能で良心的な独裁者による統治である。決定は迅速だし、目先の利益に目がくらんだ意見を排除し、強い者のエゴを封じ込めながら、正義と調和に満ちた世の中を作ることができる。しかし、そんなことは起こりにくい。いったん独裁者が暴走を始めれば止めようがなく、戦前のドイツのような現象が起こってしまう。民主主義は、ひどく手間がかかる上、決定の質はその時の国民の質を反映し、決して理想的なものになるとは限らない。しかし、最善が実現しないかも知れない代わりに、最悪もまた起こりにくい。仮に、悪い決定がなされたとしても、みんなで決めたことだから仕方ない、と納得しやすい。民主主義の救いは、むしろこの最後の点にこそあるかも知れない。

 今回の特定秘密保護法に関するドタバタを見ながら、民主主義の苦しさを思う。現在の議員を選んだ衆参2回の選挙で、こんな秘密法が提案されるという公約があったかどうかは私も覚えていない。だが、自民党が一貫して目指してきたものが何かということを多少なりとも知っていれば、今の自民党の行動はなんら不自然なことではない。政治家をある程度注意深く見ていれば、投票の段階で予測できたことなのである。民主党の失敗や、自民党の経済政策にばかり目を向けて投票したのは、決して政治家の責任ではない。だとすれば、今回のドタバタは、やはり「みんなで決めたこと」であろう。納得し、自らを省みるしかない。まして、私は若者に読み書きを教える立場にあるわけだから、人の何倍も責任を感じなければならない、と思っている。

 『朝日』の社説は、次のように結ばれている。

「こんな事態が起きたのは、政治家が私たちを見くびっているからだ。国民主権だ、知る権利だといったところで、みずから声を上げ、政治に参加する有権者がどれだけいるのか。反発が強まっても、次の選挙のころには忘れているに違いない−−。そんなふうに足元を見られている限り、事態は変わらない。国民みずから決意と覚悟を固め、声を上げ続けるしかない。」 ・・・まさしくその通りである。