「清洲会議」と「永遠のゼロ」



 ようやく今年のお仕事も終わり、家族が一足早く実家に帰ってしまって自由な昨晩は、映画『清洲会議』を見に行った。これは駄作。話にならん。何と言っても、三谷幸喜である(原作+監督)。正統な「歴史映画」など期待して行ったわけではないが、それにしてもリアルさに欠ける。羽柴秀吉は「猿」的側面だけが強調され、あれほどの事を為したからには絶対に持っていたはずの凄みも狡猾さもあまり感じられないし、障子一枚のプライバシーがゼロに近い場所で、内容的には「謀議」が終始大声で行われているし、4人だけで評定が行われるにも関わらず、家来に対する大盤振る舞いもよく分からないし、「旗取り合戦」は唐突で低レベルなコメディ(茶番)になっていて、他の場面とちぐはぐだし・・・言い出したらキリが無い。そもそも、「清洲会議」というのがどれほど特別な歴史的事件だったのかという点で、映画を見る限りは、まったくただの跡目相続問題であって、それ自体がそれほど豊かにドラマ性を含んでいるわけではない。それでも、2時間半を退屈せずに見ることができたのは、場面転換が早く、ダラダラしたところがなかったからだろう。私の評価はこの点だけだ。

 一方、その直前に読んだ、これも映画で話題の百田尚樹『永遠のゼロ』(講談社文庫)はよかった。最後の方のドラマは少し作られすぎという感じがしたが、宮部久蔵なる戦死した特攻隊員について、戦後60年経ってから孫が調べ始め、尋ね当てた元同僚(戦友)が、自分たちの立場と問題意識に立って思い出を語るという設定が上手くできている上、描写が巧みで退屈させないし、何よりも軍隊や戦争を見る目が正しいと思った。最前線で愛する家族を思いながらひたむきに命を賭けて戦っている若者に対して、海軍兵学校海軍大学校を出た将官が、部下に対しては強圧的で、理不尽な命令を平気で下しながら、自らは臆病で、戦術もよく分かっておらず、無能であったというのは一般論としての真実であろう。大衆小説とも言うべき作品ながら、戦争の不条理、厳しさ、悲惨さ、狂気性というものをこれほどしっかりと伝えているのは立派である。

 映画は見ていない。私は、戦争映画を見るのが苦しくて嫌いなので、多分行かない。だが、原作者の意図がねじ曲げられない限り、映像作品としての質は知らず、歴史に向き合い今を考えるためのいい時間であるはずだ。本を読むのが苦手な人は、映画を見に行けばよい。将来へ向けてより多くの人命を救おうと思ったら、しょうもない震災遺構の保存や、防潮堤、高盛り土道路の建設に何百億円も費やすより、こういう映画の無料鑑賞券でも配った方がよほど値打ちがあるだろうに・・・。なに、建設費の1%もかからないさ・・・。


このブログも、今年は今日でおしまい。よい新年をお迎え下さい。1年間ありがとうございました。