判事の独立性を確保せよ・・・国際司法裁判所について



 南極海における調査捕鯨が条約に違反するかどうかが問われた裁判で、国際司法裁判所(ICJ)は、違反するので、今後は実施しないように、との判決を出した。

 私は、ある一定程度の捕鯨商業捕鯨として認めるべきだ、という立場なのであるが、この判決については妥当であると思っている。日本が、毎年1000頭前後のクジラを捕っているのは、「調査」としては多すぎるだろうし、そこで捕られたクジラの肉が、市場に流通しているというのも、「調査」を口実とした商業捕鯨であると思われても仕方のないものであるからだ。条約が「調査」目的に限って捕鯨を認めるという内容になっている以上は、どうしても「違反」だろう。

 私が商業捕鯨を認めるべきだと思うのは、強い者が弱い者の命を奪って生きるというのが、生物の世界ではやむを得ないことであって、そこに「かわいそう」という感情が入り込む余地はないと考えるからである。生き物の世界は残酷なのが当たり前なのだ。

 しかし、人間は強者である結果として、環境破壊だけでなく、乱獲によって多くの種を絶滅に追い込んできた。どうしてこのような圧倒的な強さを持つかと言えば、知能によって道具、更には機械(化石燃料による動力、火薬力)を開発し、利用できたからである。人間自体は、生き物として非常にか弱い存在でしかない。だから、世の中のバランスということを考えた場合、本当は素手で、たとえそれが無理だとしても、道具だけで捕れるものだけを捕っていれば、資源の枯渇は起こらず、残酷だとの印象も軽減されるのではないかと思う。だが、石油が枯渇するまでの間、それは現実的でない。せいぜい、資源管理を厳密にしながら、クジラでも犬でも猫でも命を奪って、感謝の気持ちとともに食べればいいだろう、と思う。

 ところで、今回の判決に関する報道で、私が強く感じたのは、国際法を運用することの難しさだ。

 今回の裁判における争点は、あくまでも私の理解の範囲であるが、かなり大雑把な規定である国際捕鯨取り締まり条約(ICRW)の「調査捕鯨」が、どの程度のものを言うのかという点にあっただろう。「調査捕鯨」を厳密に定義すれば、日本のそれが国際法の範囲内なのかそうでないのかが明瞭となる。

 大抵の新聞で報道されていたが、ICJの判事は16人名で、そのうち、今回、日本の「調査捕鯨」を条約違反と判断した判事は12名、違反しないとした判事は4名であった。反捕鯨国出身の判事で「違反しない」としたのは、フランス人判事だけ、一方、捕鯨賛成国出身の2名の判事(中国、ロシア)が「違反する」とした。捕鯨についての賛否を明確にしていない国出身の判事のうち、1名は「違反する」、もう1名は「違反しない」と判断した。日本人の判事は「違反しない」である。多少のズレはあるものの、基本的に、国毎の捕鯨に対する考え方を判事が代弁した形になっている。捕鯨賛成国である中国、ロシアが「違反する」にまわったのも、日本とそれらの国との関係を考えると、「調査捕鯨」の定義を合理的に考え、日本の行為をそれに当てはめた結果でなく、日本に対する悪感情に基づく可能性がある。ICJの判事は、出身国の政治的立場から離れて、独立して判断することになっているのだが、それを実行することは難しいようだ。現実問題として、日本出身の判事(皇太子妃の父)が「違反する」に一票を投じることを想像してみると、私でさえも違和感を感じないわけにはいかない。

 だが、このようなことをしていれば、ICJが国際紛争の解決機関として信頼を得、有効に機能することは難しいだろうと思う。尖閣諸島竹島といった領有権問題で、ICJに裁定を委ねるなんて危険すぎる、という感情も生まれて当然だ。

 外交交渉に比べると、裁判は第三者の立場で結論を明確に出し、押し付けることのできる強さがある。国際紛争を解決する手段として、今以上に有効に機能して欲しいと思う。だが、そのためには、判事が独立して、自分個人の良心と見識にのみ基づいて判断できるシステムがどうしても必要だ。今回の調査捕鯨裁判を見ていて、改めてそう思った。