「子供の貧困」について



 8月30日に政府が「子供の貧困対策大綱」なるものを閣議決定して以来、子供の貧困問題についての報道を目にすることが多い。今日も、NHKが「クローズアップ現代」でこの問題を取り上げていた。少し見ていたのだが、あまり感心しない。番組の問題を念頭に、子供の貧困問題について、少し思うところを書いておこう。

 私が思うことは、主に二つだ。

 一つは、「性善説」がどこまで通用するか、という問題だ。

 高校の教員などをしていると、いろいろな家庭の内部事情を目の当たりにする機会がある。貧しい家庭というのも多く目にしてきた。しかし、本当に貧しいのかどうかを見極めることは、さほど簡単な話ではない。今は授業料の不徴収なる制度があるので、授業料に関しては問題にならないが、高校という所は、その他にも教科書代、実習費、生徒会費といった「諸経費」というものがいろいろとかかり、これらについては基本的に減免措置はない。その結果として、払えない家庭というのがそれなりにある。ところが、そのような家庭の子供がたいてい「スマホ」を持っている。立派な(私のFitより高そうな)車で子供を学校に送り迎えしていることもしばしばだ。どうも、優先順位が違うのだな、とよく思う。

 小中学校で、給食費の滞納が多くて困る、という話は、けっこう以前からよく耳にする。「払えない」のではなくて、「踏み倒している」人が少なくないのではないか、という憶測(?)に接することもまれではない。

 子供の貧困は大変な問題だ。子どもたち全てに贅沢ではないまでも、食べることには不自由のない生活をさせてあげたい、と思う。学習の機会に関する平等が保証されなければ、格差がますます大きくなり、不安定な社会を作ることになってしまうという心配も強い。だが、今日のNHKのような「貧しい→支援」というやり方が効果的なのは、「性善説」に立った場合だけだ。貧しさを装い、援助を受けながら、自分の好きなことにはお金を使う、という勢力が、果たして無視してよいほどに少ないかどうか・・・?私にはその割合が分からないし、たとえそのような不埒な人々がいて、社会としてだまされることによるロスはあったとしても、性善説に立ち、本当に困っている人を支援した方が人間(個人+社会)のためなのか、そうではないのか・・・私は少し葛藤している。

 もう一つは、世の中の問題というのはたいてい「末端」であって、その背後にはより大きく、解決困難で、しかしそこを避けていると遠い将来にますます問題が大きくなる、という根本的な「原因」があるということだ。学力低下にしても、年々増えて巨大化していると思われる自然災害への対応にしても、その例には困らない。結果である「末端」をいじることによって解決を目指すと、とにかく事は複雑化し、悪くなるのである。

 政府によれば、「子供の貧困」とは、平均的な年収の半分以下の世帯で暮らす17歳以下の子供で、今の日本でその割合は16.3%だそうである。多くの報道でも指摘され、私の実感でもあるのは、片親、特に母子家庭がそこに多く含まれるということである。その母子家庭の多くは、離婚家庭で、しかも相手から養育費を受け取れない状況にあるらしい。貧困であるかどうかを別にしても、おそらく、片親家庭というのは驚くべき数なのであって、その弊害は「貧困」といったお金のレベルを遙かに超えているだろう。

 もちろん、各家庭にはそれぞれの事情があって、我が家だっていつ何が起きるかは分かったものではないので、それを責める気はないのだが、やはり、大人が何かしらの問題を抱えていて、そのしわ寄せが子供に行くのだ。「子供の貧困」はその末端の一現象だ。大人自身のあり方、社会全体の見直しをしなければ、問題は他にもいろいろと発生し、モグラ叩きが続くことになる。私は、そんな大人社会を生んだ根っこの所に「過剰な豊かさの追求」、もしくは「商業主義」があると思っている。私たちは、「子供の貧困」に最低限の対症療法を施しながら、そんな根源に大きく目を見開いていなければならない。プライベートでデリケートな問題に触れることになる上、今の世の中の価値観に反することもあってか、マスコミはその点を避けているようだ。

 「制度」というのは良くも悪くも一網打尽で、融通が利かない。社会全体の問題を考えるとともに、政治的なパフォーマンスを排し、本当に支援の必要な人にだけ、効果的に支援ができるような、そんな柔軟な施策を考えなければ、と思う。