書店つれづれ



 昨年末に、家族で姫路へ行った話は書いた(→こちら)。姫路駅前の大通りからひとつ東には、「御幸通り(みゆきどおり)」というアーケードの商店街がある。姫路駅から御幸通りに入ったすぐのところ右側には、かつて新興書房という、姫路で一番大きな書店があった。なにしろ懐かしいので、覚えず、今でもあるかな?と目が自然に探してしまうのをどうすることもできなかったが、私の記憶によればかつて新興書房であった建物は、ドコモショップに変わっていた。う〜ん、これは象徴的だ、と思った。関係があるかどうかは定かでないが、携帯電話・スマホの普及に歩を合わせるように、人々は紙に印刷された活字から離れていった。かつて書店だった建物が、携帯電話の店になるというのは、あまりにも出来すぎた話だ。

 仙台に戻ってきて1週間が過ぎた1月6日、『毎日新聞』に「書店空白332市町村」という大きな記事が出た。新刊本を扱う書店が1軒もない自治体が、全国には332ある、その中には「市」も四つ含まれる、2000年からの14年間で、書店の数は37%も減った、云々という話だ。困ったものだな、などとため息をつきながら過ごしているうちに、1ヶ月後となる昨日、その記事を受けて、同じく『毎日』に、岡崎武志という文芸評論家が「読む喜び知った町の書店」という記事を書いていた。それを読んで、私も大変お世話になった「書店」というものについて書いておこうかと思うようになった。

 私は図書館というところのお世話になったことがあまりない。大学時代はよく利用したが、たいていは勉強場所としてであって、本を借りるわけではなかった。一度読んだ本は、手元に置いておかないと、後から調べ直す必要が生じた時に不便だし、そもそも、私は本に書き込みというのをよくやる。だから、図書館の本ではダメなのである。かつて模擬試験の問題文か何かで、本は身銭を切って買い、読んでこそ、その内容に真剣に向き合えるというような随筆を読んだことがある。それも正しいように思う。

 図書館に思い出がない一方、書店にはたくさんの思い出がある。大学に入るまでの、世界が狭かった時期を思い出してみると、仙台の金港堂、高山書店、宝文堂、姫路の新興書房、龍野(私が高校を出た町)の竹書房と伏見屋書店(←先日、龍野に行った時、旧市街でこの書店が生き残っていたのには本当にびっくりした!)あたりが、まず頭に思い浮かぶ。だが、もう一つ、大阪梅田の紀伊國屋書店を忘れるわけにはいかない。

 兵庫県に住んでいた中学・高校時代、私は年に2度ほど、大阪府池田市にある母の友人の家に家族で遊びに行っていた。到着すると、私は間もなく、1人で阪急電車に乗り、梅田に出た。当時は、今のジュンク堂のような大規模書店がなかった。田舎育ちの私にとって、梅田にあった紀伊國屋はまるでおとぎの国だった。2〜3時間、広い店内をウロウロしながら、つまみ食いをするように立ち読みをし、最後に数冊、高校生の小遣いで買える程度のささやかな買い物をして、再び阪急電車で池田に戻るのが、本当に楽しい時間だった。大学に入った後は、本を買うのは大学生協がもっぱらとなったが、町の書店にも見物には出掛けたし、東京の古書店や中国書籍専門店に出入りする機会もできた。
 こうして、書店を軸として、自分の読書生活を作ることが出来たことを、私は非常に幸せであった、と思っている。インターネットで本が探せたり、取り寄せが出来るようになったのは、私が就職してから10年くらい経ってから、年齢で言うと、30代半ばになってからである。学生時代にインターネットに触れる機会がなかったことは、自分の中にある種の大切なものを形成していく上で、とてもいいことだったと思うからだ。

 私は、書店には大きく二つのメリットがあると思っている。一つは、本の質感、量感といったものに触れることができるという情緒的な価値である。もう一つは、自分が欲しい本だけではなく、いわば、世の中の広さ・大きさに触れることが出来る点である。これらは、図書館でも書店でも同じかも知れない。だが、私にとっては同じではない。それは、本は基本的に身銭を切って買い、読むべきものだという前提に、私自身が立っているからだろう。

 私は、高校生が人生の選択に迷った時、特にやりたいことがないという場合、よく書店に行くことを勧める。そこで、本の背中を見ながら、興味を引かれる本があれば、まずは目次と著者のプロフィールを書いた部分に目を通せ、と言う。目次を見れば、本の背中(タイトル)よりも1段階深くその分野・テーマの概要が分かるし、どのような経歴をたどれば、そんな世界について一著を書けるようになるのかが分かるからである。目次を見て更に興味を引かれれば、あとは、関心の程度に応じて本文に目を通していくしかない。こうして、世界はどんどん広くなる。

 思えば、私自身も、大きな書店をウロウロしながら、世界はどれくらい広いのか、知にはどれくらいの奥行きがあり、具体的には何が問題となっているのか、といったことを知っていったのだと思う。だからこそ、後に、インターネットで本を探し、購入する機会が生まれても、その本に書かれていることが全体の中でどこに位置するのか、その後ろにはどんな世界が広がっているのかを感覚的に把握することができるのではないか。そして、必要なものをピンポイントで検索するだけの人には、その背後にある世界の広がりが実感できず、知識が横断的に結び付いて、知的世界を豊穣なものにしていくということも起こりにくいように思う。

 学校の勉強だって、それがカバーできる知的世界なんてたかが知れているだろうし、書店で得られるものとの相互作用によって、いわゆる学力は身に付いていくものであろう。

 だからこそ、やはり、書店が数を減らしていること、(特に若者が)本を読まないこと、本を書店であれこれ品定めしながら買うということをしないことは、非常に大きな問題なのだ。身近に書店がなければ、ふらりと書店に立ち寄るという経験も出来ず、すると、ごく身近なところに豊かな知的世界が広がっていることを感じ取るチャンスも生まれない。やはり書店が消えていくこと、特に、生活圏の広くない高校生くらいまでの間に、ふらりと立ち寄れる身近な書店がないというのは、由々しき問題だな、と思う。

 問題だ、問題だと言いつつ、解決策は見当たらない。私自身は、日本語の新刊書をネットで取り寄せるということはしないと決めているのだが(→こちら)、それを世の中全体の運動にしていくのはなかなか難しい。それが市民運動になったとしても、活字離れを止められなければ、書店の回復は実現しない。活字離れが、スマホを始めとする文明の利器によってもたらされたとすれば、文明の発達、エネルギーの浪費こそが書店の敵、ということになるのだけれど、そんなことは言っても始まらない。時代の流れだ、と言って、あきらめるしかないのかな?とも思うが、やはり寂しい。と書きながら、なんだか、この「寂しい」という漠然とした感覚だけが真実であるような気がしてきた。