いじめも一つの現象



 またもや学校における「いじめ」について、世間が騒がしくなっている。28日には、河北新報他で、東北地方の公立小中学校だけで昨年度1年間に27200件のいじめが認められ、生徒1000人当たりの発生件数で、宮城県が全国第2位であったことが報じられた。いじめをいじめと認めるのは、口で言うほど簡単ではないので、これらの数字がどれほど「正しい」かはよく分からないが、相当数であることは間違いないのだろう。学校がどう対応するかも含めて、なかなか頭が痛い話である。

 かつて書いたことがあるが(→こちら)、いじめる人というのは弱い人である。弱い人間であるにもかかわらず、そんな自分を直視することも劣等感に苦しむことも嫌で、手っ取り早い方法として、誰かをいじめて自分を救おうとする。

 私だけでなく、「昔の人は強かった」と言う人は多い。逆に言えば、「今の人は弱い」だ。昔は今に比べると不便だったから、移動するにしても、物を運ぶにしても、自分の体が全てだった。だから、特別なトレーニングなどせずに、普通に生活しているだけで体力がついた。不便な生活をしていれば、我慢を必要とする場面も多いので、精神力もついた。昔の人が強かったのは体だけではなく、心もである。だとすれば、人間が弱くなった現代において、いじめが増えるのは当然だということになる。

 困ったことに、弱くなっているのがいじめる側だけということはない。いじめられる側も同じであろう。すると、いじめた結果(いじめられた結果)引き起こされるトラブルは、時代が下がるに従って数も質も深刻化するはずである(→過去の類似記事)。

 最近私は、「人間が自然から離れている」ということを、キーワードのようにブツブツ言っている(例えば→こちら)。見境なく石油を燃やし、人間が人間を越える力を手に入れてしまった結果として、人間は、自然をねじ伏せ、自然を意のままに操れると誤解した。同時に、人間は自然としての性質を失いつつある。私は「少子化」を現在政治家やマスコミが語るような社会現象だとは見ない。人間が自然から離れた結果である、と見る。そしておそらくは「自殺」も・・・。命が自らの命を絶つというのは不自然である。人間が弱くなったことと、自然から離れたことによって、自殺も増えると思う。もちろん、いじめられて自殺する人間は悪い、と言う気は毛頭ない。だが、いじめる側だけを悪者にしても済まない。構造的な人間の生活様式と、それによって作られた精神の問題である(→参考)。

 だとすれば、それが学校もしくは青少年だけの問題に限られるわけがない。議会で繰り返されるセクハラ、マタハラのヤジ、会社で増えているというパワハラ、更には多数派であれば何を決めてもよく、少数派はそれに従うのが当たり前、思想信条も言論表現の自由も関係ないという思想・・・。世の中にはいじめがあふれている(→参考)。一人を殺せば殺人として責められるが、数百万人を殺せば(戦争)喝采される。学校で一人をいじめれば悪事だが、国家権力が少数派を弾圧しても正当なる政治問題だ。

 以前、「抜本塞源」という言葉について書いた(→こちら)。悪は根っこで止めれば大事に至らないが、末端で止めようとすれば大変であるだけでなく、ますますことを面倒にする。いじめも、学校で対症療法を施すのは仕方がないにせよ、それが決していい方法でないということは絶えず意識していなければ、事態は悪化の一途をたどる。そして、根っことは、もちろん、石油を燃やすことで自然から離れ、自然を見下す傲慢な生活であり、その更に根っこには、金で買えるものは買い、買った以上はどんな使い方をしてもいい、もうかることは何でも善という発想がある。それは平和ボケと言ってもいいし、文明ボケと言ってもいい。現代のあらゆる問題はそこから生み出されている。いじめをいじめとしてばかり考えない方がいい。