今度は補助形容詞?!

 一昨日の発表をもって、宮城県高校入試の後期選抜試験というのが終わった。「国語」の試験問題に、前期選抜の時の「補助動詞」(→こちら)とよく似た問題が出た。あまり取り上げる価値はないのだが、では、どうしてそんな問題を出すのか、という問題提起の意味も込めて、もう一度触れておくことにする。


第二問(平居注:なぜか下線が引けないので、代わりに傍線部を太字とする。)
 どんなにゆたかになり、どんなに進歩し、どんなに技術が新しくなっても、変わらないものがあります。一日の時間です。(以下省略)
問一 本文中の「ない」と傍線部の文法上の性質が同じ言葉を、次のア〜エから一つ選び、記号で答えなさい。
 ア 来ない  イ 遅くない  ウ 少ない  エ ぎこちない


 またしても自分の無知をさらけ出すようで恥ずかしいのだが、私は答えが分からなかった。本文の傍線部は、「変わる」という動詞に付いた付属語なので、形容詞の一部(活用語尾)に傍線が引かれたウとエが絶対に違うことは分かる。だが、ア、イの「ない」は、どちらも打ち消しの助動詞で、「文法上の性質」に違いはない、と考えたのだ。
 一緒に採点に当たった同僚に尋ねてみると、アは「ない」が動詞に接続し、イは形容詞に接続している、だから、答えはアになるはずだ、と言う。解答を見てみると、確かに答えはアだ。今は「ない」の性質が問われているのであって、直前の語の品詞が問われているわけではない、だとすれば、アを選ばせるためには、「ない」だけではなく、「変わらない」に傍線を引かなければならないだろう、と私はしても仕方のない反論をした。すると同僚は、国語辞典やら「便覧」という資料集やらをいろいろ持ってきてくれた。
 いろいろな記述を整理すると、およそ次のようになる。

「「ぬ」に置き換えて成り立つ場合の「ない」は助動詞、成り立たない場合は補助形容詞である。それは動詞に接続するか、形容詞に接続するかの問題でもある。」

 すると確かに、「変わらぬ」「来ぬ」は成り立つが、「遅くぬ」は成り立たないので、文法上の性質は違うと言える。私の負けだ・・・といくだろうか?
 意味から考えると、アもイも、直前の用言(「来る」「遅い」)を打ち消しているだけで、何の違いもない。加えて、古語の場合は「遅からぬ」と、「遅し」にも「ぬ」を付けることが出来る。もちろんこの場合、「遅くあらぬ」が詰まった形なので、もともとは「あり」という動詞への接続なのだが、ともかく、形容詞「遅し」に「ぬ」は付くのである。更に、「遅くない」を一つの形容詞と考えてしまうと、「ない」は形容詞の活用語尾でしかなくなり、「少ない」「ぎこちない」と同様になってしまう。あえて言えば、「遅くはない」と「遅い」と「ない」との間に「は」を入れてみると、「ない」が自立語(補助形容詞)らしく見えてくるが、「遅く(自立語)+は(付属語)+ない(付属語)」で一文節という理解をしても、それによって支障が生じるわけではない。つまり、どこからどう考えても、「来ない」の「ない」と「遅くない」の「ない」を区別する必要性はないのである。
 能楽についての作文でも書いたことだが、馴染みのない異文化を理解しようとする時に、文法という「知識」から入るのは一つの手だ。だが、異文化が「異」文化でなくなった時には、むしろ文法なんて忘れてしまった方がいい。つまり、文法はあくまでも補助手段に過ぎないのである。文法がそれ以上であるのは、文法を通してその言語を操る民族の精神や文化の構造に迫る、という場合だけだろう。
 しかし、文法は非常に論理的であるだけに、つじつま合わせ(パズル)の楽しみにはまると抜け出せなくなり、一般レベルにおいても、さも重要なことであるかのような誤解をすることにもなりかねない。少なくとも、高校入試で文法を問うとすれば、高校で学ぶ古典文法の下準備として、「品詞」の分類や「活用」が理解できているかどうか、に止めるべきだろう。その意味で、「変わらない」に傍線を付け、「来ない」を選ばせるのはアリだと思う。この場合、問われているのは動詞と形容詞の区別だからである。
 入学試験だから、差を付けるのが役割なのかも知れないが、大丈夫、無意味なことを尋ねなくても差は付く。ぜひ、学ぶ価値を実感できることをこそ問うて欲しいものだ。