私は能楽に冷淡ではない(2)

 仙台のような地方都市でさえ、オーケストラの演奏会が、プロ・アマ合わせると年に数十回も行われるのに対して、歌舞伎はたいてい1回、狂言や能は1〜3回、文楽に至っては数年に一度しか接するチャンスがない。そもそも、接するチャンスが少ないから理解が進まないのか、受け入れられにくい事情があるから公演の回数も増やせないのか、と考えた時、私は後者であろうと思う。
 20世紀前半の中国に、蕭友梅(1884〜1940)という人物がいた。日本で言うと、伊澤修二と立ち回りがよく似ている。すなわち、中国において西洋音楽の受容というものに道を拓いた人物である。その蕭が、「最近一千年間の西洋音楽の発展の顕著なることと我が国の伝統音楽の不振の原因について」(1934年)という文章を書き、不振の原因として、以下の各点を指摘している。

1:鍵盤楽器と五線譜を発明できなかったこと。
2:古いやり方を墨守し、進取の精神がなく、よい楽器や良い方法を持ち込むことが出来ても、それらを自分たちのものにしようとしなかった。
3:正式な音楽教育機関がなかったために、指導方法が改善されず、記譜法も不統一であったこと。

 1の鍵盤楽器を発明できなかったことが、なぜ不振の原因になるかというと、蕭自身の解説によれば、鍵盤楽器があってこそ複雑な音の重なり(原文:複音=和声法や対位法のことだろう)を持つ音楽が生み出されたからだ。確かに、弦楽器にも重音奏法はあるが、使用は限定的であり、オーケストラで使われているどの楽器でも、基本的に和音は演奏できない。鍵盤楽器以外でそれが可能なのは、ハープと木琴類くらいだろう。もっとも、和声や対位法が未発達であったことが、直ちに後進性を意味するわけではない。そのようなひとつのスタイルとして尊重することが必要な場合もあるからである。だが、五線譜のような伝達のための合理的手段を発明できなかったことは、もちろん能楽に限らず、日本の伝統音楽を普及させるという上ではマイナスだった。
 2についても、改革は伝統の喪失にもなり得るという点で、さほど大きなマイナスには思えない。だが、西洋音楽が絶えず革新しつつ、パレストリーナやバッハがそれなりの価値を持ち、尊重され続けていることを思うと、能楽が上手く革新できずに来たことは、硬直を示すと言えるかも知れない。
 3も普及という観点から見ると、絶対にマイナスだ。今は東京芸術大学音楽学部に邦楽科があり、能楽も扱っているが、聞く所によれば、そこに在籍する学生も必ず他に師匠というものを持ち、師弟関係の中で芸を磨いているのだそうだ。大学との役割分担のようなものがあるのかどうか、大学が何をする場所なのか、私は知らない。ただ、その世界は間違いなく西洋音楽に比べて閉鎖的であり、保守的である。
 つまり、蕭友梅の指摘は、そのまま日本の伝統音楽に当てはまるのではないだろうか?更には、昨日書いたとおり、楽曲の様式、楽器の性能や形態、作曲家についての伝記的知識といったものについての記録が少ないために、「能楽史」の楽しみを味わうことも難しい。
 では、それらの現象がなぜ生じたのか?つまり、能楽、広く日本の伝統芸能は、なぜ普及のためのツールを手に入れられなかったのか?・・・。ヨーロッパ人と日本人の資質の違いはあるかも知れない。だが、それよりもむしろ、私は、日本の伝統芸能に普及のための圧力が加わらなかったからである、と思っている。西洋音楽は布教や信徒集団の強化、教会への求心力の強化という役割を教会によって与えられ、その役割を果たす限りにおいて強力にバックアップされ、常に大衆化を意識させられていた。これが決定的に重要な問題だ。
 こう見えても、私は、学生時代に国立能楽堂や観世能楽堂に何度か足を運んだことはあるのである。しかし、動きの極端なまでの抽象性と時間の長さ、音楽のつかみ所のなさにノックアウトされてしまい、愛好するには至らなかった。「響き」は魅力的だが、それだけなら30分で十分だ、これなら、台本(謡曲)を文学として机上で味わう方がいい、と思ったのだ。その結果、とんとご無沙汰になってしまったのは、「冷淡」というのとは少し違うと思う。心は今でも開かれている。「上田龍一」君、私に一度「能楽」を講釈してみないかね?