「自衛隊最高指揮官」を名乗る不気味

 先週の土曜日に、庭の水仙が二輪咲いた。はっきり憶えていないのだが、それより少し早くスズラン水仙も咲いた。そして今日は、一気に十輪以上!本当に暖かくていい天気が続く。しかし、やはりウグイスは来ない。もう絶望だ。我が家の回りのウグイスは、「復興」という巨大土木工事のために絶滅、またはどこかへ避難してしまったのだ。本当に明るく輝かしい、春のシンボルだったのに。どう考えても必要とは思えない土木工事のために、生き物たちの平穏な生活を蹂躙する人間に、天罰が下ることを願う。もちろん、私も巻き添えだ。仕方がない。
 さて、今朝の新聞は、たいてい第1面で、安保法が施行されたことを大きく伝えていた。前々から、繰り返しているとおり、この法律の問題は、戦争を誘発するか抑止するかではなく、憲法違反である点にある。野党共闘は、いくら小異を捨てて大同につくとは言っても、あれだけ各政策で意見がずれていると、「野合」であるとの批判は免れない。かと言って、このままでは政権の暴走を止められない。難しいものだな。
 ところで、今日の「毎日新聞」には、安保法の施行と関連して、ちょっと気になる記事があった。「語られぬ本質 広がる落差」という見出しの付いた署名記事で、書いているのは滝野隆浩氏という編集委員なのだが、わざわざ「防衛大卒・56歳」と補記してある。本文を読むと、任官後に退任して記者に転身したのではなく、卒業時に任官拒否したらしい。
 その滝野氏が、今月21日に防衛大学校の卒業式を取材に行った。滝野氏自身は任官拒否者で、それでも卒業式には出席した。しかし、2年前から、任官拒否者は卒業式への出席が許されなくなった。訓示で安倍晋三首相は、自らを「自衛隊最高指揮官 内閣総理大臣」という肩書きとともに名乗った。首相として訓示を行ったのは4回目で、「自衛隊最高指揮官」が付いたのは初めてだという。
 卒業式に出席させないという措置は、決して分からないでもない。式辞、訓示では、自衛官としての今後に向けて何かが語られるのだろうし、任官が原則、いや約束であることからすれば、任官拒否は掟破りだからだ。
 「自衛隊最高指揮官」は何だろう?もちろん、制度上はその通りなのかも知れないが、なぜ今年わざわざそれを語ったかである。どうもそこには、ある種の自己陶酔というか、自己顕示欲というか、威張りたがる心性が表れているようにおもわれてならない。首相も国民も、実質がない状態でいい気になり、おごり高ぶって自己崩壊へと突き進んだ20世紀前半と同様になってはいけない。そのことに対する警戒感=自戒の念は常に持ち続けていなくてはならない。出来れば、指導者たる政治家こそブレーキの掛け役であって欲しいが、実際は逆で、政治家は往々にしてパフォーマンスに走り、暴走しがちである。たかが一個の肩書きでも、それをあえて語る意味は何か?私たち国民が、厳しく注視していなければならないだろう。