新しい方言学を目指して

 先日、Yさんの件で火葬場に行った時、長い待ち時間の間にハガキを1枚書いた。宛先は、大学時代の友人、以前このブログに「国立国語研究所のセンセ」として登場したことがある大西拓一郎氏である(→こちら)。センセの新著が刊行されたらしく、出版元から我が家に届いたので、アナログ主義者である私は、メールなどではなく、とりあえずハガキでお礼を書いたのである。
 ポストに入れた後で、少し後悔が兆した。文面に、「近いうちに読んで、ブログに感想めいたものを書きたいと思う」というようなことを書いてしまったことについて、である。世の中には、感想を書く価値のない本というのがある。いい本ではあるが書きにくいという本もある(後者の例として、今年2月に徳川直人氏(=拙著『それゆけ!水産高校』のチラシに文章を書いてくれた社会学者)から届いた『色覚差別と語りづらさの社会学エピファニーと声と耳』(生活書院)を、この機会に挙げておこう)。送ってもらった本が、それらに該当したらどうしよう、余計なことを書くのではなかった・・・と思ったのである。
 偶然にして幸い、感想を書く価値があるし、書けるとも思った。仏事の合間その他の時間を使って、熱心に最後まで読んだ。『ことばの地理学−方言はなぜそこにあるのか』(大修館書店)である。わかりやすく面白い。
 一読して特徴的だと思ったのは、用言の活用語尾や敬語についての記述があることである。私が今までに読んだ方言(正しくは「俚言」であろうが、混乱を招くと思うので、一般的な言い方に従って「方言」と書いておく)の本というのは、基本的に敬意を含まない一般的な単語、用言の場合は終止形でしか考察されていなかったのである(センセ自身の前著『現代方言の世界』朝倉書店、2008年には、活用語尾に関する記述が少しある)。特に活用語尾の方言的変化というのは、言葉の歴史を考える上でなかなか意味深いものに思われた。
 だが、それよりも更に面白いのは、筆者が自分自身の問題意識や、今後の方言学への展望を書いた第9章である。そこでは、まず『蝸牛考』への懐疑が語られる。『蝸牛考』というのは柳田国男が言語周圏論を提唱した、日本方言(言語地理)学の金字塔である。同じ言い方が、東日本と西日本に中間部を隔てて見られることに着目し、都で生まれた言葉が、日本列島を東西に伝わった歴史が、同じ言い方が同心円状に見られるという現象に現れている、というのがその主旨だ。だが、本当に方言は同心円状になっているのか?柳田国男が立つ前提は正しいのか、という疑問を、筆者は投げかける。言語周圏論が日本方言学の巨大な権威であることを思うと、国語学者がそれに疑問を示すことは、なかなかに勇気のいることであると想像できる。
 今にして思えば、私も以前からカタツムリの方言地図を見た時には、書かれた理屈に合うように地図を読もうと努力していたような気がする。その中で、全国にまんべんなく分布する「カタツムリ」「デデムシ」類を無視して、東日本と西日本に大きく分かれて存在する「ナメクジ」や「マイマイ」類を、根拠として自分自身に信じ込ませようとしていたのではなかったか?つまり、言語周圏論は裸の王様であって、私自身も王様が裸であることを指摘できなかった一人であり、筆者はそうではない、ということになる。
 ここまで読んできて、それ以前のページで論じられてきた様々な方言発生の歴史についての見解(推論)が、言語周圏論から自由であろうとするが故に可能となったものであったことに気づく。『蝸牛考』への懐疑を、本書の冒頭に置いた方が、読者にとってはインパクトがあり、その後の部分も位置づけが明瞭になったような気もするが、その程度のことを筆者が考え付かないわけはないので、何かの意図を私が読み取れていないのであろう。
 それはともかく、筆者は、ここまでで論じてきた方言の分析が、「多かれ少なかれ過剰なモデル化に陥ってしまっている」と自己批判しつつ、「それら(=方言の歴史モデル)が欠落させた最大の対象は、方言ということばを使う「人びと」である」と書く。「地図を通して方言分布だけを見るのが言語地理学ではない。そこには人々がいて暮らしている。地図上の方言分布は、そもそもそのような人が存在して、そのような人の属性のひとつを表しているのだということを忘れてはならない。」たいへんまっとうな意見である。だが、ここまでを読んできた私は、方言地図の読み解きを通して、多少なりともその土地で生きる人々の生活を知り、その雰囲気に接することが出来たような気分になっていた。あまり「過剰なモデル化」が行われていたような気がしない。だとすれば、筆者が感じている「人びと」への視点の欠落とはどういうことなのか、その問題を解決させた時に、どのような新しい方言学、いや「人びと」が見えてくるのか・・・いずれ、その解答が明らかに示されることを楽しみにしていよう。
 そうそう、「ラボ・トーク」(→こちら)にも来てくれないかなぁ。