育児の墓・・・函館の町を歩く

 下船時、車で来た人たちが、私たちに、どこかまで乗せていきましょうか?と声をかけてくれた。私は言葉に甘え、たまたま近くに居た女性2人とともに赤レンガ倉庫の並ぶベイエリア函館市内観光の中心地)まで送ってもらい、地元の人たちが「函館のソウル・フードだ」と強く薦める、ラッキー・ピエロという店のチャイニーズチキンバーガー(チャイチキ)なるものを食べに行った。マヨネーズがこってりと塗られた巨大な唐揚げが挟まる食べ応えのあるチキンバーガーが、たったの350円である。これはお得!味は特別と思わなかったけれど・・・。
 ちなみに、夜はやはり地元の人おすすめ、キッチン・ハセガワの焼き鳥弁当だった。大盛りで、4本の焼き鳥がご飯の上に敷かれた海苔の上に乗っている、単純極まりない弁当である。レシートを残していないが、確か650円くらいだった。ビールを飲みながら食べるにはよいが、あまり特別、どうしてもこれがいい、と言うほどのものではなかった。入手するのに30分待った。
 さて、39年前函館に来た時は、町をほとんど何も見ていない。寝台急行「すずらん」で札幌から着いて、そのまま江差線松前線(どちらも既に廃止)に乗りに行き、函館に戻った時には日が暮れかけていた。有名な五稜郭くらい見てみようと、市電に乗って五稜郭駅で降りたが、事前に何も下調べしていなかったので、電停からそれらしきものが何も見えないことに当惑し、夜になりかけていたということもあって、付近を少しうろうろして駅に戻ってしまった。
 今回、特別に行ってみたい場所があるわけではなかった。例によって地図を熟読し、『ブラタモリ』函館編は読んだが、さほど魅力的な場所は発見できなかった。青函連絡船の記憶をたどるべく、函館駅の近くに浮かべてある「摩周丸」には行ってみよう、と思っていたくらいである。
 昼食後、2人の女性と別れ、私は歩いて駅前に出ると、ホテルに荷物を預けて出かけた。結局、行ったのは、摩周丸、本町市場、五稜郭(タワー)、湯ノ川神社、立待岬(含石川啄木一族の墓等)である。
 摩周丸は、内部がかなり改装されてしまっていることもあって、さほどの感慨がなかった。眠っていた記憶が呼び起こされるということもなかった。船体のあちこちから錆が浮き、船底にはびっしりと昆布が生えている。海に浮かべっぱなしで長期間保存することには無理があるのだ。もうそろそろ限界だろうな、と思った。
 観光地化している駅前の朝市と違い、こちらは庶民の市場だよ、と紹介してもらったのが本町市場だ。しかし、3時頃私が訪ねた時には、既に3分の2位の店が閉店していた。ちなみに朝市は、宿から至近だったこともあって、おしょろ丸に乗船する日と函館最終日の朝に行った。そこそこ活気があって面白いのだが、客引きがうるさくて、落ち着いて商品を観察できない。もちろん、商品は売るためにあるのであって、見物のためにあるのではないのだから、ただ観察したいという私が悪いのだけれど・・・。
 五稜郭はさすがに一見の価値があった。タワーから見下ろす五稜郭は本当にきれい。中央に建っている箱館奉行所は、復元なので訪ねなかった。タワーの料金は900円とそれなりだが、五稜郭だけではなく、360度函館の町が見えるわけだから、これは行く価値があると感じた。
 路面電車の走る町は風情がある。湯ノ川は電車の終点だから行ってみたのである。神社だけ見て、谷地頭へと引き返す。谷地頭の電停から立待岬までは1キロだ。自然の風景の美しさは、いくら見ていても飽きることがないので、夕刻ではあったが足を伸ばすことにした。途中の道路際に、石川啄木一族の墓がある。東京で死んだ啄木の墓が、なぜここにあるのかはさておき、その斜め向かいのような所に「育児の墓」とあるのが目に止まった。変な名前だな?・・・墓碑銘も見えなくなった小さな小さな墓の横に、説明板が設置されていて、以下のように書いてある。

「明治初年、函館に槇山淳道なる医者の主唱で杉浦嘉七などが資金を出し合い、窮民の子や捨て子の面倒をみる『育児講』なるものをつくった。この墓は、当時の育児講での養育中に亡くなった子供たちの墓といわれている。育児講は後に育児会社となり、その系統は慈恵院から厚生院に発展した。  平成15年7月函館ボランティアクラブ作成」

 今に比べてはるかに貧しかった時代、その中でなんとかして恵まれない子供たちを助けたいという熱意、それでも乳幼児が死んでいくという厳しい現実とを想像させてくれる。墓がひどく小さいだけに、なおのこと人々の苦しみと悲しみとが伝わってくるようだ。偶然見つけた小さな小さな墓だが、切なくて、ひどく印象に残った。
 家族に恨まれそうな気がしたので、いかにも観光地然とした場所は五稜郭に止め、函館山にも登らなかった。JR函館駅の2階には北文館という書店があり、北海道の鉄道と函館に関する本の品揃えが充実していた。そこで『函館山−自然ガイド』(木村マサ子、北海道新聞社、2011年)という本を見つけた。ただロープウェイで登って夜景を見て終わり、ではなく、この本を片手に、まるまる一日かけて函館山を歩き回ったら楽しいだろうな、と思った。しょせん半日の函館市内見物だったから、残りはまた次の機会に。


(補)「函館厚生院」のホームページを開いてみると、その源流を1900年開院の「函館慈恵院」であるとしていて、それ以前の育児講、育児会社には触れていない。通常、組織というのは歴史を古く見せようとするものなので、これは不思議である。
 育児講については「函館市における社会事業史研究2−育児講、函館慈恵院、函館厚生院への展開を中心として」(松田賢一・新沼英明『函館短期大学紀要42』2016年)という論文がある。