成人式に振り袖?

 「はれのひ」という会社の契約不履行が大きな問題になっている。1件当たりの被害額は数十万円というから驚く。被害者が立腹するのもよく分かる。
 しかし、被害者が「一生の一度の成人式に」と涙ぐむのを見ていると、少し違和感を覚える。はてさて、成人式というのはそれほどたいそうなものかな?
 私は自分の成人式に出ていない。20歳になる年に、パスポート申請か何かの都合で住民票を移したら、その関係でだろう、旧住所の竜野市からも新住所の仙台市からも案内が来なかったのである。それで案内を待ち遠しく思ったとか、来ないことに憤ったということもなく、ほとんど成人式そのものを忘れているうちに終わってしまった。
 20歳というのは、高校・大学への入学や、結婚といったことと違って、本人の努力や決断とは無関係にやってくる。20歳まで生きてこられたことや、その間に世話になった多くの人に感謝する、今後、社会人としてどのような生き方をしていくのか決意する、といったタイミングとしての意味は確かに認めるけれども、このところ毎年各地の成人式で問題となる新成人の幼稚きわまりない不品行を見ても、感謝や決意といったものとは無関係に形式的な儀式が行われているだけ、といった感じがする。成人式にあの仰々しい晴れ着がどうしても必要だ、というのもよく分からない。自分の娘が成人式を迎える時に、そんな晴れ着姿を見たいともゆめゆめ思わない。成人式を5月のゴールデンウィークや8月のお盆に移そうとすると、和服や理美容の業界から猛烈な反発があるという話を耳にすると、なんだかうさん臭い雰囲気が漂ってくるのを感じる。
 と考えてきて、いったいいつ頃から自治体主催で成人式というものが行われるようになり、いつ頃から女は振り袖という慣例が出来たのだろうか?と気になってきた。
 我が家に適当な書物が見つけられなかったので、手っ取り早くWikipediaを見てみて、ははぁ、さもありなん、と思った。典拠もしっかりしているし、間違いのない話であろう。
 それによれば、成人式は1946年11月に埼玉県蕨市で行われた「青年祭」が起源だ、というのが「定説」だそうである。1948年に成人の日が祝日として制定されることで、それは全国的な行事として定着していく。太平洋戦争当時、贅沢品が禁じられ、壊滅状態になっていた和服業界が、昭和30年代に業界の復興策として成人式に目を付け、百貨店を中心として動いた結果、和装市場で動くお金の4分の1を成人式関連が占めるようになった。
 ははぁ、古くはクリスマスやバレンタインデー、最近ではハロウィーンや節分の恵方巻と同じで、要はもうけるために作り出された新興の価値観なのである。儀式としての歴史も非常に浅い。Wikipediaでも、成人式に振り袖というのは、「作られた幻想」だと評している。
 今回の「はれのひ」事件が、成人式は振り袖という価値観を問い直すきっかけになればいい。「一生に一度」というほど大切なものなら、今のような異常にけばけばしい衣装で、スマホ片手に、幼稚な大騒ぎを繰り広げている現実にこそ、自分たちで憤って欲しい。
 ちなみに私は、毎日毎日、この一瞬一瞬を「一生に一度」だと思って生活している。いわば「一期一会」というやつである。そう言えば格好いいが、常に怠ることなく緊張感を持って生きるという崇高なる精神なんて持ち合わせていない。運を天に任せてその日暮らし。次の一瞬がなかったとしても運命と、半ば投げやりに生活しているだけ。ある意味で、成人式を「一生に一度」などと言っていられる人が羨ましい。あくまでも、「ある意味で」なのだが・・・。