教研の途中に吉野作造記念館

 沖縄の県民投票が終わった。ふたを開けてみれば、投票率約52.5%、辺野古への基地建設反対が71.7%、有権者全体に対する反対率は約37.6%で、25%を超えたため、結果を首相とアメリカ大統領に通知するらしい。平居が弱気なことを言っていたが、ほら見ろ、やっぱり基地建設にブレーキをかけるいい材料になったではないか、などと言ってはいけない。「結果論」というやつである。「欲目」と言ってもよい。事前の世論調査で97%もの人が行くと言っていたはずの投票は、わずか50%強に止まったし、そもそも基準となる25%(4分の1)という数字にどのような意味があるかもよく分からない。政権側からすれば、なんだ、しょせん3人に1人じゃないか、となっても不思議ではない。
 週末はよく酒を飲んだ。金曜日は高体連登山専門部の「退官を祝う会」(今春定年退職を迎える山岳部顧問3名の送別・祝賀会)があって、仙台に泊まり。土曜日は、恒例、教職員組合主催の研修会「教育講座」で、川渡(かわたび)温泉に泊まりであった。
 「教育講座」は、我が家にとって「便乗式家族温泉ツアー」というのが、これまた恒例となっていたが、今年は、中2の娘が部活の練習試合だとかで1人自宅に残り、下の子だけを連れての中途半端なツアーになってしまった。子どもの成長と共に、だんだん家族が一緒に動くことは難しくなってくる。分かってはいたけれども、少し寂しい。
 さて、組合主催の教研(教育研究集会)が斜陽化の一途にあり、どうも困った話だ、教員はいったいいつどこでどのような勉強をしているのだろう?というようなことは、近年毎年のように書いている(→例えば)ので繰り返さない。今年はまた、参加者数が昨年から一気にほぼ半減し、50歳を過ぎたよく知った顔ばかりが目立つ会となった。
 極めつきは「国語」の分科会である。出席者は2名。これは私ともう一人の分科会責任者T先生、要は主催者だけ、つまり実質的に参加者ゼロということである。仕方がないので、3時間のうち2時間は、T先生と雑談をしたり、ビデオを見たりしてつぶしたが、話も尽き、バカバカしいから止めようということになって、あとは読書タイムとしてしまった。
 ところで、主催者の一角にいる私は、受け付け開始時刻の1時間前が集合時間だったのだが、あまりたいした仕事があるわけでもないので、ボスであるS先生に言って、遅刻していくことにしていた。寄り道したい所があったのである。
 行ったのは大崎市古川にある吉野作造記念館である。
 昨秋、やはり組合の全国学習会があって山梨に行った話を書いた。その時、山梨平和ミュージアム(YPM)という所に行って、浅川保先生という方と出会った話も書いた(→こちら)。その後、浅川先生からは御著書『地域に根ざし、平和の風を』(平原社、2018年)を送っていただいたが、それに添えられていたお手紙の中に、先生が吉野作造について学ぶ過程で、宮城県古川に何度か行ったというようなことを書いておられたのを見て、虚を突かれたような気分になった。私とて、吉野作造が古川の出身で、そこには立派な記念館もあることは知っていたのだが、日本近代史への問題意識の低さから、今に至るまで吉野についてまじめに学んだことも、記念館を訪ねたこともなかったのである。先生の著作を読んでいて、私が「民本主義」と「民主主義」の違いもよく分かっていなかったことに赤面すると共に、記念館くらい一度行ってみよう、思えば2月23~24日に古川を通る機会があるぞ、と思い至った。
 吉野作造記念館は、YPMと違って(笑)、非常に立派な建物である。駐車場にあまりにもたくさんの車が止まっていたものだから、吉野作造すごい人気だな、と驚いたのだが、館内は閑散としていた。ちょうど「吉野作造講座」というのが開かれていて、そちらには多少人がいたようだが、展示室は、最初から最後まで(約1時間)私達だけだった。車の数と、館内にいた人の数はまったく釣り合っていない。
 最初に「我らが同時代人 吉野作造」という20分ほどの映像を見せてもらう。映像で生涯の概要がつかめるのはよいことだが、作品としての出来(分かりやすさ)はイマイチだった。その後、館内の展示を見る。どうしても、文字中心の展示になりがちだが、整理の仕方が上手で、たいへん分かりやすい。孫文や黄興の揮毫には迫力があった。
 天皇主権下にあって、主権問題を回避するために作られたという「民本主義」という言葉には、妥協的なにおいが漂っているが、今回展示を見てみて、なかなか立派な人だなとの思いを抱いた。それは、吉野が単なる学者でも言論人でもなく、活動家だったことによっている。東大教授というポストを捨てて朝日新聞に移ったことには、彼が象牙の塔に安住することを潔しとせず、言論においても実際的であることを重んじていたことが感じられるし、黎明会、家庭購買組合、軍備縮小同志会、明治文化研究会、独立労働教会、社会民衆党といった、小は家庭から、大は国家に至るまでの様々な活動団体を設立しては、その要職に就いている。文化アパートメントという日本で最初の洋式集合住宅の建設にも関わっていたようだし、軍部批判もためらわず、関東大震災においては朝鮮人虐殺の真相究明に奔走した。なるほど、単に古川出身の東大教授という話ではないのだ。
 吉野は1878年に生まれ、1933年に没した。55年の生涯である。私は既にその地点を通過してしまった。だが、展示を見ている限り、質だけではなく、量においても私など遠く及ばないものだったように見える。長生きばかりが能ではない、ということは分かっているつもりだったが、自分の小ささが感じられて切なくもなった。