森氏の問題と教員不祥事と

 東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会の森会長が、女性蔑視と思われる発言をしたということで、厳しい批判を受けている。なんだか、袋叩きの様相を呈しており、見ていてあまり愉快ではない。何か問題があると完膚なきまでに叩きのめすという最近の風潮を恐ろしいと思う。
 私は、森氏が首相だった時代から、さほどいい印象は持っていない。いかにも自民党の親分だな、と思う。今回の発言についても、ケシカランと思うし、それがホンネなのだろうとも思う。謝罪会見というやつがまた悪すぎた。火に油を注ぐとはこのことだ。
 しかし、発言に問題があったことを本人が認め、まがりなりにも撤回・謝罪の意思を示し、IOCも一件落着としている以上、これだけ大騒ぎをするに値するかというのは疑問だ。また、辞任論も強まっているが、そもそも、現時点で東京大会組織委員会の代表者など、正に「火中の栗を拾う」役職以外の何ものでもない。「開催する」と強気の発言を続けすぎてしまった結果として、なおのこと立場を悪くしたということもあるだろうが、どう考えても、今後「針のむしろ」に座ることを余儀なくされる可能性が高く、おいしい役職には思えない。しかも、森氏自身の言葉によれば、無報酬の仕事らしい。仮に森氏が辞任したら、それ相応の人物で、後任を引き受ける奇特な人はいるのだろうか?
 本人としても、元政治家としての最後のご奉公、もしくは花道として引き受けたものの、今後の困難を考えれば、今回程度の失言で辞めさせてもらえるなら、むしろ幸いなのではないか?・・・というのが私の想像だ。そんな立場をあえて引き受けている83歳の老人には、多少の敬意を払ってもいいように思う。いずれにせよ、問題があったからといって直ちに大騒ぎしすぎるものではない。
 大騒ぎといえば、教員の不祥事に関する報道も後が絶えない。
 かれこれ1週間ほど前の話、札幌で、28年前のわいせつ行為によって某中学校の先生が免職になったというニュースが流れた。我が地元紙の河北新報で、その扱いが大きかったことなどもあり、何度か記事を読んではみたが、どうも気持ちがよくない。悪いことをした人が罰せられるのは当然なのに、どうしてこんなにすっきりしないのだろう?と考え続けていた。もちろん「28年前」ということに対する驚きもあるが、どうやらそれだけではないようだ。
 あくまでも一般紙による限り、先生は中学生だった女性に告白し、抱きついてキスをし、その後4年間にわたって何らかの交際を続けたらしい。女性は、別れてから4年後の2001年に市教委に相談したが、その時は、わいせつ行為の事案として取り扱われず、そのままになった。女性は更に、2015年にある裁判を傍聴したのがきっかけで、自分の心に受けた傷を強く自覚するようになり、2019年に自らも裁判を起こして、わいせつ行為を認定させた。それを受けて、市教委が今回の処分に及んだ。およその経緯はこんなところである。
 どうやら私は、二つの点について違和感を感じているようだ。
 一つは、被害者である女性の訴えが、どうも単なる「復讐」でしかないように思えることである。女性の「どうしたら(男性教員を)懲戒免職にできるかをずっと考えて(裁判や市教委への申し立てを)してきたので、処分が実現してよかった」という言葉(毎日新聞記事)を読んで、こんなに深い傷を負っていたのだな、と同情すべきなのかどうか・・・?

 いくら元先生と生徒の関係とは言え、基本的には人間関係の問題であり、しかも、今はどちらもいい年である。まずは、間に誰かを立ててもいいから、当人同士が話をし、女性が心に傷を負ったというのなら、先生が誠心誠意謝るべきだ。少なくとも記事からは、そのような努力が為されたようには見えず、裁判や処分という社会システムによる血の通わない解決の模索ばかりが見える。
 もう一つは、罪刑法定主義との関係である。処罰というのは人権侵害なので、慎重であることが求められる。その具体的なルールとして、罪は明文化されたルールによってのみ裁かれる、というものがある。それが罪刑法定主義だ。このことは更に、事後法による処罰を禁ずるという原則を生む。例えば、誰かが法律の抜け穴を見つけて、いかなる法律でも罪には当たらないような新しい悪事を働いたとする。それによって大変な苦しみを味わっている人が、現にいるとする。だが、いくら悔しくても、悪事が為された時点でそれを犯罪と決めるための法律がなかった以上、加害者を処罰することは出来ない。今後へ向けて、新しい法律を作るしかない。そういうことである。
 私が見たところ、特に教員の世界などは、その不祥事の増加と社会的批判の高まりを受けて(増えたかどうか、本当は分からない。大声でアナウンスするようになっただけのようにも思う)、年々厳罰化が進んでいる。今回問題となっている出来事でも、2001年に初めて女性が市教委に相談した時、市教委がわいせつ行為の事案として扱わなかったというのは、教員の不祥事に対する当時の意識を物語っているように思う。
 一方、その先生が今回免職となったのは、28年前の行為を、当時のではなく、今の基準で裁いているように思える。それは日本の刑法原則に反する。確かに、これは刑事事件ではないので、教育委員会の措置は任命権者としての裁量権に基づく。だが、悪についての裁きであり、人権侵害を伴う以上、法治国家内で行われることとして、刑法原則を準用する必要があるのではないか?
 私の持つごく限られた範囲の情報によってではあるが、札幌市教委に対し、よくやった!という喝采が多いようには全然見えないことが、多少の救いか・・・な? 上のように整理したものの、まだモヤモヤは残っている。このモヤモヤの正体については、もう少し考えてみたい。