難しい「人の心」

 相手が男であるか女であるか、あるいは年上であるか年下であるかに関係なく、私自身、人間関係においては本当に失敗が多かったと思う。常に誠実でありたいと思ってはいたし、相手と最善の関係を作りたいと願ってもいた。それでも、その時の感情に流されたり、誤解をしたり、ほんのちょっとした感情の齟齬にこだわったりして、人間関係を壊したことは少なくない。後悔と羞恥に苦しむので、いっそ過去のことは思い出したくないと思うほどだ。自分では気付いていない形で、相手を傷つけていることもあるかも知れない。
 一方、私自身が、他人の言動で苦しんだことだって、決して少ないとは言えない。そのたびに、我慢をしたり、気を紛らわせたり、八つ当たりをしたり、様々な対処をしてきた。だが、おそらくこれらは、私特有の現象ではなく、内容や量に多少の違いこそあれ、誰においてもあることなのではないだろうか?
 それらのろくでもない体験があって今の私がある。今の私は立派な人間だと自信があるわけではないけれど、それらの体験がなければ、今程度の私にさえなれていなかったに違いない。人生には無駄がない(と信じたい)。
 特に難しいと思うのは男女関係だ。恋は人を狂わせる。何もかもが特別であり、それでいて何一つ異常なものはない。当事者がいいと思うかどうか、全てはその点にかかっていて、他人が2人のしていることをいいとか悪いとか言うのは、余計なお世話以外の何ものでもない。41歳差の加藤茶夫妻でも、高校時代に25歳年上の既婚の先生を追いかけ、やがて離婚させて結婚したフランス大統領も、起こる確率が低い結婚パターンだという点で「普通」ではないけれど、「異常」だと言って他人が批判したり、好奇の目で見たりするのは間違っている。
 さて、昨日の問題に戻る。私が報道を見ていて、その少ない情報の故に気になったのは次の点だ。
・先生はその女性のことが純粋に好きだった(恋愛感情)のかどうか。
・他の生徒とも、何かしら特別な関係を持っていたということはないのか?
・その先生は、その女性と別れた後、どのような教員生活を送ってきたのか?
 なんとなく感じるだけなのだが、最初の2点には、あまり問題がないように思える。ただ、それらの点に問題がなければ、その先生の行為を容認していいかというと、おそらく必ずしもそうではない。相手がまだ中学生だったというのもまずいし、教員の立場を利用して、生徒を従わせたということはないのか、という問題もあるからだ。それについては分からない。ただ、たとえ教員から告白された時に女性が「恋愛の意味も明確に理解できぬまま受け入れてしまい」、「教諭は生徒を導く絶対的な存在と思っていた。逆らう発想がなかった」としても、その後、高校卒業後まで4年間も付き合う中で、その状態がそのまま持続し、周りの誰かに相談することさえできなかったというのは信じがたい。
 3点目については全然分からない。だが、この先生を免職にするという場合、その点が非常に重要な意味を持つように思う。その先生が、教員として不適格と思われるような言動を続けていたとすれば、今更の免職も「あり」だと思う。今後に向けて生徒を守るという意味でも、あるいは、この出来事を口実として問題のある教員を排除するにしても、だ。
 しかし、もしもその先生がその後まじめな、特にマイナスのない教員生活を続けてきたとすれば、今後被害者が出る可能性は考えられないわけだから、その女性との関係を公にし、その先生に「わいせつ教員」のラベルを貼って罷免することは、現在関わっている生徒に動揺を与え、社会に「教員」に対する不信感を抱かせるという点で、マイナスの方がはるかに大きいのではないか?札幌市教委は、私がここに書いている程度のことも考えずに、厳罰を以て職員の不祥事に臨むという安易なヒロイズムに走ったように見える。
 私の教員仲間の中には、教え子と結婚した者が少なからずいる。生徒が在学中から付き合っていたという事例も知っている。彼らがどんな付き合い方をしていたか、詳細は知らない。かなり怪しい例もあるのではないか、と想像する。彼らは気持ちが真面目で、立場をわきまえた立派な付き合い方をしていたから結婚に至った、札幌の先生はそうではなかった、とは思わない。札幌の先生の人柄を知らないので、これもまたあまり断定的には言えないのだが、人間同士の様々な駆け引きの中で、紙一重、よく分からない何かが結末を分けただけのようにも思う。
 女性は、先生と付き合っていた時には、性被害という認識がなかったという。先生と別れて約20年を経た2015年に、養護施設職員が16歳の少女に性的行為をした事件の裁判を傍聴してから、先生が自分にしたことを犯罪かも知れないと思うようになり、翌年、強い苦痛を感じるようになってPTSDとの診断を受けた。
 女性は、「当時の判断力が未熟で十分でなかったり、恐ろしい思いから物事を考えないようになったりすると、性暴力と認識できるまで時間がかかる」と語る。だが、それにしても20年はかかりすぎだろう。
 人間は、したことの意味が、その後の人生の中で様々に見え変わる。例えば、人生が順調に進んでいる時にはまったく気にならなかったことを、逆境になった時に突然思い出し、「あれがあったから今の生活がうまくいかないのだ」と考えることがある。前向きな発想の苦手な人ほどそうだろう。それが本当にそうなのか、自分を守るためにどこかに責任(原因)を求めているのかは悩ましい。長く生きれば生きるほど、様々な体験が感情の形成に関わるようになり、特定の何かと今の感情との因果関係は分かりにくくなっていく。あまり時間が経ちすぎた事案は、恣意的な因果関係を作り出す元になってしまうから注意が必要だ。
 何度も書くとおり、あまりにも情報が限られすぎているので、女性がされたことやその感情について確かなことは言えない。先生の思いも全然分からない。だが、今まで書いてきたようなことから総合的に考えるに、どうも女性や市教委の対応には問題が大きいような気がする。そして私は、昨日から今日にかけて長々と書いてきたようなことに思いを巡らし、「免職」という処分の重さもあって、なんだか嫌な気分になるのである。