ヨハネ受難曲

 先日、浅川保先生の著書に触れた時(→こちら)、「ちょっと骨の折れる本に取り組んでいた」ため、なかなか先生の本を読むことができなかった、というようなことを書いた。その「骨の折れる本」とは、私の研究に関わる中国の文献などではなく、礒山雅『ヨハネ受難曲』であった。
 私は礒山雅(いそやま ただし)という音楽学者を高く評価していて、3年前、その訃報に接した時に、かなり長い一文を書いたことがある(→こちら)。その際、氏が博士論文として書いたバッハ「ヨハネ受難曲」についての考察が、やがて出版されることを楽しみに待つ、というようなことを書いた。そしてそれは、博士論文の主査であった国際基督教大学・伊東辰彦氏の助力によって、昨年1月末に筑摩書房から出版された。うかつにも私はそのことに気付かず、昨年末頃になってようやくその存在に気付いたのであった。
 今年の1月、私は仙台の書店で『ヨハネ受難曲』を購入すると、早速、読み始めたのだが、これが難航。あの『マタイ受難曲』と比べて、はるかに難解なのである。もっとも、その難解さは、氏が年齢とともに整理や表現の能力を低下させた結果ではなく、おそらく「ヨハネ受難曲」の性質そのものに由来する。聖書章句とコラール(賛美歌)以外の自由詩楽曲部分が、一貫して1人の作詞者ピカンダー(本名:クスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ)によって書かれている「マタイ」に対して、「ヨハネ」の自由詩は誰が書いたのか分からない。しかも、聖書章句でさえ、「ヨハネによる福音書」だけとは限らない。作曲後の改訂が基本的に1回しか行われなかった「マタイ」に対して、ヨハネは少なくとも4回行われている。このような事情が、「ヨハネ」という作品を、よく言えば「研究対象として面白く」、悪く言えば「非常に分かりにくく」させているのである。
 「ヨハネ」は私の大好きな作品で、かつて合唱団の一員として演奏に参加したことさえある。生まれて初めて買ったCDも「ヨハネ受難曲」だった(1985年頃、2枚組で7200円もした!!)。少なくとも、「マタイ」よりは「ヨハネ」の方が圧倒的にいいと思う。「マタイ」は演奏時間が約1時間長いだけでなく、「ダ・カーポ」アリア(前半を反復するABA形式のアリア)が多いためか、冒頭合唱の印象によるのか、「ヨハネ」に比べると鈍重と言うか、チンタラチンタラ長い感じがする。「ヨハネ」は、切羽詰まった感じの合唱部分が多く、直線的、鋭角的に強い推進力でドラマが進んでいく感じがする。そして何と言っても、最後のコラールの清冽さ!!歌うにしても聴くにしても、テキストや改稿の複雑さなど意識することはない。
 さて、礒山氏の『ヨハネ受難曲』を2回くらい読んだところで、その難解さに戸惑い、私は例によって、スコアに礒山氏の指摘の書き込みをした。それによって、氏の主張がかなり明瞭になり、納得する部分も増えた。
 次に、我が家にあるお気に入りのDVD、すなわち鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンによる2000年7月28日(東京・サントリーホール)のライブ録画を、スコア片手に2回見た。福音史家を受け持つゲルト・テュルク他、ずらりとそろった名人たちによる優れた演奏である。「歴史的名演」とは言わないが、今や老大家と言うべき領域に入った鈴木雅明氏の、全盛期の佳演と言っていいだろう。だが、スコアに書き込まれた礒山氏の指摘が、その感動をどれだけ大きくしたかというと、それは怪しい。氏が力を込めて指摘する不協和音など、かそけきチェンバロで一瞬刻まれるだけでは、意識していても心に響いては来ない。氏の指摘があってもなくても、氏の指摘を曲の流れの中で意識できなくても、やはり以前と同じように「ヨハネ」は素晴らしいのである。
 なんだかケチを付けるようで申し訳ないのだが、前作『マタイ受難曲』と違って、『ヨハネ受難曲』は閉ざされた研究書のように思える。つまり、作品鑑賞とは違うところで独立した研究書だ。最初に書いたとおり、それは「ヨハネ受難曲」という曲自体の性質に基づくだろうし、歴史資料の研究としてはむしろ面白いに違いない。私の期待と方向性が違っていたということである。
 私の頭の中で、「ヨハネ」を楽曲から歴史資料に切り替えることができたら、また読んでみよう。その時には、もう少し多くの発見と感動が得られるはずだ。