パラリンピックのことなど

(9月7日付け「学年主任だより№17」より①)

*今回は裏だけでなく、表にも新聞記事二つ。

 

(9月3日付け河北新報より、西脇久夫氏の訃報貼り付け)

 この記事を見て、「これ誰?」という人は、塩高生ではない。諸君の大先輩(旧男子高の卒業生)、かつ現在の塩釜高校校歌の作曲者である。私は、自分の母校を含めても7校の校歌を知っているに過ぎないが、塩高の校歌は名曲だと思っている。歌詞はともかく(失礼!)、メロディーはとても魅力的だ。85歳ともなれば仕方がないとは言え、作曲者が亡くなったのは残念。それでも、塩高ある限り校歌は歌われ続ける。素敵であり、うらやましいことだ。合掌。


(9月5日付け毎日新聞コラム「余録」を貼り付け=このコラム秀逸!!)

 オリンピックに続き、パラリンピックも終わった。私は元々パラリンピックにさほど関心を持っていなかった。ところが、家族が熱心にテレビを見ているものだから、つい気になって見ているうちに熱中してしまった。
 確かに、スピード感には欠けるものが多いのだが、種目やルールの設定がうまくできているし、勝負の持つ緊張感の強さは、決してオリンピックに劣ってはいないような気がしてきた。
 思えば、サッカーという種目は、手のある人たちが「手を使わない」という制限を課すことによって面白くなっている。他の種目でも、コートの広さや道具、体重など、様々な制限が設定されることで競技は成り立つ。パラリンピックのような障害者による競技は、制限が自分の内にあるか外にあるかが違うだけで、案外、スポーツとしての本質は同じなのかも知れない。
 勝負の際の敵は常に「自分」である。そのことからすれば、大切なのは100mを10秒で走るか14秒で走るかではなく、自分の力を100%出し切ったかどうかだ、ということになるだろう。そして「100%」は自分を成長させるだけでなく、人の心をも動かす。それが出来る人を「一流」と言う。


裏面
(8月4日付け河北新報「文化欄」より「『北海道・東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録」を貼り付け。大見出しは「持続可能な社会を体現」。考古学者・岡村道雄氏へのインタビュー記事。)

 世界文化遺産への登録を別にしても、最近は「縄文ブーム」だと言われている。「土偶がかわいい」とか、「縄目模様のデザイン性が優れている」とか、若者からの評価も高いらしい。
 縄文時代の人々が持続可能な社会を実現させていたというのは当たり前である。それは、縄文人が地中から「資源」なるものを掘り出していなかったからだ。今の私たちにとって当たり前とも言える地下資源の利用は、本当に「当たり前」として許されるのか?縄文人からそんな問いを投げかけられているようだ。