(2月17日付「学年主任だより№35」より①)
一昨日、帰宅するとき雨が降っていた。雪ではなく雨である。
私は学生時代、縁あって、仙台市内のあるお寺の座禅堂という所で生活していた。朝食付きでタダだったので、下宿と言うより「居候」と言った方が正しい。代わりに、朝の掃除や留守番などの手伝いをしていた。
座禅堂は鉄筋コンクリート、教室の倍ほどの広さがあり、一部だけ畳が敷いてあった。冷房どころか暖房もない。諸般の事情で暖房器具を持ち込むこともできなかったので、冬はひたすら耐える。・・・そんな生活をしていると、2月のある日、「あ、今日春が来た」と分かる瞬間がある。信じてもらえないだろうし、私も今はその感覚をリアルに思い出すことは出来ないのだが、間違いなくそれはあった。
多分、暖房の効いた建物の中で安逸な生活をすることによって、私はそういう感性を失ってしまったのだろう。昔の人の季節に対する鋭敏な感性も、その辺に原因がありそうだ。あさっては二十四節季の「雨水」(雪が雨に変わる日)。
(1月15日付「天声人語」を貼り付け。)
毎年1月半ばに、必ず東洋大学の「現代学生百人一首」の作品が「天声人語」で取り上げられる。諸君と同じ世代の文芸作品として、前回か前々回、諸君の俳句と一緒に取り上げようかと思いながら、スペースの都合で出来なかった。諸君の俳句にコロナは意外に登場しなかったが、こちらはコロナ一色。巧みな表現と素直な詠みぶりに感心する。この表現の豊かさは57577という形式あってこそだな、と思うとき、短歌が昔の人の心をとらえた理由も分かるような気がする。
裏面:2月8日付毎日新聞より「『ヒトラー想起』ヘイト?」「橋下元大阪市長の弁舌を評論 研究者が分析」を貼り付け。
平居コメント:何が起こっているかは、読めば多分わかる。世の中には、明確に基準を決めやすいものと決めにくいものとがある。数値化できるものは前者、人の思想や価値観に関わるものは後者だ。したがって、後者についてはたびたび物議が生ずる。誰か声の大きい人(=影響力が強い人)が言えば、なんとなく正しいように思われる。だが、それはとても危険なこと。私達にとって大切なのは、誰が言ったことについても「本当なのかな?」と立ち止まって疑い、「そもそも○○とは何か?」という原点思考をすることだ。それをしなければ論者(前田朗氏)が言うとおり、特定の強い人間にとってだけ都合の良い世の中が出来上がる。