今日から年度の後半に入る。勤務先の高校では、29日に期末考査が終わり、昨日は1日の秋休みが設けられていた。もちろん、休みなのは生徒だけで、教員は勤務日である。部活はやっているし、就職試験や感染症問題で考査を受けられなかった生徒の追考査などもあり、学校はそれなりに賑わっていた。
私も、必死になって採点をしていたのだが、午後だけは休みを取って仙台に出た。昨日から3日間、「せんくら(仙台クラシックフェスティバル)」が行われている。3日間で68公演。名だたる演奏家がずらり勢揃いなのだが、いかんせん、一つ一つの公演がほぼ45分ということもあり、田舎からわざわざ行く人間にとっては、決してメリットの大きいイベントとは言えない。第16回でありながら、私が行くのはたったの2回目(→前回の記事)。
今年、あえて行ったのは、鈴木優人がチェンバロでバッハのパルティータ全曲を演奏するからである。上にも書いたとおり、「せんくら」の「売り」は、一つの公演が45分、その分チケットも割安(内容によるが、基本1300円)で、つまみ食い的にいろいろな演奏家、曲を楽しめますよ、ということである。その原則を崩さないために、鈴木優人のパルティータ演奏会は、2回扱い。前半(14:45~)が第1、2、4番、後半(18:45~)が残りの第3、5、6番であった。
鈴木優人は、バッハ演奏の権威・鈴木雅明氏のご子息で、父親と同じく指揮者、鍵盤楽器奏者であり、父が創設したバッハ・コレギウム・ジャパンという古楽器オーケストラの首席指揮者、読売日本交響楽団の指揮者(クリエイティブ・パートナー)を務める。テレビにもよく出ていて、先月もEテレ「クラシックTV」でバッハを取り上げた時に出演していた。私は、氏が仙台フィルの定期演奏会に登場した時に2回聴きに行って、2回とも絶大なる感銘を受けた。父の威光を背負ったただの「ぼんぼん」ではない。初めてその演奏に接した時、音楽家に対してだけは異常に妬み深い私が、「おそらく日本人で最も優秀な指揮者、いや音楽家として、今後ますます名声を馳せることになるだろう」と書いたほどである(→その時の記事)。
その鈴木氏が、ついに鍵盤楽器奏者として仙台に来る。しかも、プログラムはあの名曲を一気に、だ。そして、幸運なことに、平日の昼間なのに学校は秋休みで、授業がない。私は、発売初日にチケットを入手し、いつにないほどの期待を胸に仙台に向かった。
平日の午後だというのに、ほぼ満席。なぜか、夜の方は2割ほど空席があった。
大きすぎる期待というのは、得てしてマイナスに作用するものである。名演であって当たり前、少しでも傷があれば「がっかり」となりかねない。昨日も、決して悪いとは言わないが、最初から最後まで、あちらこちらに演奏上のミスと言うか、ほころびがあって、そのことが妙に気になった。あの一分の隙もなく磨き上げられた仙台フィルの演奏との落差を、大きいと私は感じた。また、ピアノで演奏する時と比べると、チェンバロでは音の強弱が付けにくいこともあって、広い会場で聴くと、音が団子になって一つ一つの音が明瞭に分離して聞こえない。首に縄を付けてぐいぐい引き回されるほどの力を期待していた私としては、少し「がっかり」に近かった。
なぜ前半が1、2、4番で、後半が3、5、6番かについて、私は演奏時間の調整だろうと思っていた。いや、実際そうであろう。1、2、3番よりも、4、5、6番の方が、2~5分くらいずつ長いのである。短めの3番と長めの4番を入れ替えると、前後の時間的バランスが取れる。鈴木氏は、4番についての解説として、冒頭はフランス風序曲だ、バッハは作品の折り返し点にフランス風序曲をよく書いた、だからパルティータでも4番になっている、と語った。だとすれば、後半の冒頭に第4番を置くことは、バッハの意図を大切にすることになり、動かせないはずだ。そこまで語るんだったら、なぜ今回の演奏会で前半の最後に置いたのか?そこは説明すべきだろうと思った。演奏時間の関係で動かすなら、そんなことは語らなければよかったのだ。
後半の最後にはアンコールとして、長くバッハの作品と信じられてきたペツォールトの「メヌエット」が演奏された。少しピアノに触れたことのある人なら誰でも(私でも!)弾ける簡単な曲を、おびただしい装飾音を付け加えて演奏し、面白かった。