文科省へのパブコメ

 5月13日に出された中教審初等中等教育分科会質の高い教師の確保特別部会の答申(正式名称は「 「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)」)について、パブリックコメント(以下、パブコメ)を募集していることを知った。10日あまり前のことである。
 パブコメなんて、出すのも時間の無駄、彼らにとっては結論を出すための手続きの一つに過ぎない、ということは重々知っているつもりである。しかし、誰も意見を出さなければ、「異論は出なかった」で済まされてしまう。それはそれでまずい。
 というわけで、すぐに出そうと思ったのだが、コメントの提出フォームを開くと、そこには意見を書く欄だけで、「審議のまとめ」本文は書かれていない。それを見ながらでなければ意見など書けないので、改めて文科省の「審議のまとめ」を開き、それを読むとことから始めてしまうと、なかなかパブコメを書くところまで行き着かない。
 結局、その本文(57頁)にざーっと目を通した上で、「概要版」(4頁)をプリントアウトして、それを横目で見ながら、慌ててコメントを書いたのは昨晩のことであった。締め切りは今日の23:59である。あー危ない。
 「異論は出なかった」を回避するためだけのつもりで、ささっと書いて終わらせるつもりだったのだが、なにしろまとめるのが下手なので、ダラダラと長くなった。練った文面になっていないこともあって気恥ずかしいが、記念に公開しておくことにする。パブコメの応募フォームと同じく、「審議のまとめ」本文はここに引用できない(ごめんなさい)。気になれば、文科省のHPで参照願いたい。


【第1章「我が国の学校教育と教師を取り巻く環境の現状」について】

 学校や教師の負担が増えていることについて、「課題が複雑化・困難化」していることを原因としており、しかもその「課題」がただの社会現象であるかのように書いているのは違う。教師は、本当にやむを得ない社会変化による課題への対応なら、さほど負担感を抱かないはずだ。問題は、政府・文科相が、学校にいろいろなことをやらせようとして、教員が不本意労働をしなければならないことによっている。例えば、第1節に「学校を取り巻く環境の大きな変化」の例として、「GIGAスクール構想の進展」とあるが、これが自然現象であることなどあり得ない。政府が「GIGAスクール構想」を進展させようとして、それに現場が振り回されているのだ。
 私は1989年に教師となったが、ほぼ同じ時期、「日の丸君が代」を政府がごり押ししたことによって、現場で議論の火がすっかり消えたことを目の当たりにした。その後、学校はひたすら上意に忠実に動く場所となり、教師の自発性や自主性は阻害され(もしくは条件内での制限されたものとなり)、10年に1度という学習指導要領の改訂に合わせて各種制度変更に振り回されることもあって、不本意労働が増えてきたのである。教育の理念を大切にせず、問題が起きないことを最優先に考える事なかれ主義も、学校をねじ曲げている大きな要因だ。
 国家の意思によって教育をコントロールする、という、問題の根源的な部分を完全に不問にした上で、枝葉末節をいじっても、問題は解決しない。学校が国家の宣伝塔になってしまったという太平洋戦争時の反省を原点に、教員が主体的に仕事をできるようにすれば、多忙はあまり問題にならないのである。悪いのは多忙そのものではなく、多忙の質だ。
 もう一度書くが、国が自分達にとって都合のいいように(もしくは、自分こそが学校がどうあるべきかの答えを知っているというような思い上がった姿勢で)学校を動かそうとしているうちは、絶対に学校はよくならないし、教師は魅力的な仕事にはならない。
(ただし、飼い慣らされた結果として「考える」ことを忘れてしまった今の教員は、突然、自らの理念に基づいて仕事をしろ、と言っても、容易には出来なくなっている。これを回復させることは容易ではないのだが・・・)


【第3章「学校における働き方改革の更なる加速化」について

 学校の多忙を問題にすると、県教委はすぐに「ICTによる業務の効率化」を言う。今回の答申もまったく同じだ。ICTを導入すれば、本当に、それが魔法の杖のように作用して、多忙を改善できるだろうか?
 私は、むしろ逆で、ICTが多忙を加速させている部分が大きいと思っている。そもそも、人間の作業能力や思考力はほとんど変化しない。そんな中で、機器が進歩すると、それが補助として機能するよりは、人間が機器に振り回されるようになる。ICTを使いこなすための勉強も、それによる情報漏洩などの心配(対策)にも時間を取られる。最先端機器は、トラブルが起きると素人の手に負えない。それまでならやらずに済んでいたことが、やらざるを得なくなる。
 ICTが効率化に寄与しているのはほんの一部分であって、よく観察すればするほど、ICTは多忙の原因の一つであることが分かる。政府や県が、すぐにICTを持ち出すのは、多忙を本質的に解消させる方法が見えない中で、なんとなく答えを出した気分になれるからではないか?


【第4章「学校の指導・運営体制の充実」について】

 若手教師へのサポートのため、「新たな職」の創設が必要だというのは、よく分からない話だ。今までも職場には若手が常にいたのに、なぜ今になって「新たな職」が必要なのか?この間、副校長なる地位が出来、主幹が生まれた。教員の階層化は本当にいいことか?これは、私が第1章に関して批判した、上意下達の強化であって、職場環境の根本的改善とはむしろ逆を向いている。風通しのよい、のびのびとした職場環境があれば、「教え合い・学び合い」は実現するのである。教員同士の横のつながりが希薄化する中で、階層化を進めれば、教員はそれがなければ教えることも学ぶことも出来ないほど弱体化する。その流れを断つことこそが必要なことだ。
 また、「新しい職」などいらないので、教員定数そのものを大幅に改善してほしい。増やすのは教員(教諭)でなければ意味がない。
 学習指導要領の改訂によって、政府方針が変わった時、「教員が変わること」がよく求められる。実に奇っ怪な話だ。たいてい、制度変更は仕事が増える方向に行われるのだが、教員の意識が変われば対応できるというような問題ではない。無理難題を押し付け、それに対応するための条件整備を一切行わず、それでいて「教員の意識が古いままだからダメなのだ、教員が変われ」と言うのは、あまりにも身勝手だ。現状から考えれば、最低でも教員定数の倍増が必要である。パートや補助的な人員を増やしてもダメである。

、                                                                                  以上