反貧困への反論(2)

 私は、雨宮、谷口両氏が言うような絶対貧困とも言うべき家庭が一定数あることは否定しない。何%なのかは知らない。しかし、最低限の食糧が買えるかどうかというレベルにおいては、間違いなく日本の絶対少数者だろうと思う。日頃から、貧困救済活動をしていれば、その視野に入ってくるのは例外的貧困層が多いため、それが実際以上に多く見えているのではないかと思う。
 もちろん、絶対少数だから彼らのことは考えなくていいとは思わない。だが、少なくとも、政治が悪いから庶民が貧困で、闇バイトに応募したくなるのも理解できる、日本で働いても食っていけないから、ワーキングホリデーで海外に出ようと考える、というのは認識として間違いだ。
 私は、基本的に「強欲」と「怠惰」がそれらの現象を生み出していると考える。自分のしたいことに見境なくお金をつぎ込んで借金を作る。お金を手に入れるためにできるだけエネルギーは費やしたくない。時給1000円でバイトをしている時に、最低賃金が2000円を超えている国があると知れば羨ましく思い、そのような所で稼ぐことに「夢」を感じる。ごく一部の例外的な貧困者が存在するのと同じ、いや、それ以上の確率で、そのような欲の深い人がいるのではなかろうか?
 私は「知足(足るを知る)」という道徳を、とても大切だと思っている。人間は、人と比べては、他人のことを羨ましいと思い、持てば持つほど所有の欲望を膨らませる。しかし、そのような人間の「自然」に従えば、他者と競合し、利害が対立して争いを生み、永遠に満足は得られない。本来、人間は他の生物と同様、日々の食糧を得るためにあくせくする生き物だった。それが、多少の知恵と莫大なエネルギー消費とによって余裕を生じ、プラスアルファを求めるようになった。やがて、プラスアルファを考える余裕を持つことに対する感謝の念を失い、「もっと、もっと」と考えるようになった。絶えず原点を確かめ、日々生きていられることに満足していれ(=足ることを知れ)ば、今の日本人の生活水準で、金を手に入れるために闇バイトだワーキングホリデーだ、という話には絶対にならない。
 「日本国憲法は、幸福を追求する権利をうたっています。自力で幸せになれる人だけが幸せな社会は想定していません」(谷口)も、半分正しいが、半分は間違いだ。そもそも、幸福を追求することは「権利」である。権利の主体は国民であり、「追求」した結果として「幸福」になれるかどうかは努力と運とにかかっている。しかし、日本国憲法は、「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(第25条後段)と書く。一方で、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(第12条前段)とも書く。当然だ。幸福実現(追求)の責任をすべて国に負わせれば、国民は他力本願で努力をしなくなり、すべて国民に負わせれば、人間が何から何まで不平等に出来ている以上、格差の絶望的な拡大は避けられないからである。国が国民の幸福を実現させようと施策を行うことも、国民自身が努力することも、どちらも必要である。
 拙著『実用「哲学する」入門』にも書いたことだが、この点に関し、個人と社会との折り合いをどのように付けるかは難しい問題である。社会の責任論にも個人の責任論にも上に書いたような問題があるとすれば、社会と個人は、それぞれ自分の責任を考えるのがいいということになる。個人は自己責任論に立ち、社会は社会責任論に立つということである。そうして初めて、個人の堕落も社会の無責任も避けられる。だが、ではどのようにしてその状態に持って行くか、ということになると、非常に難しい。政治家が問題の所在をよく把握した上で冷静に議論をするしかないのだが、なにしろ政治家は国民が選び、それらの質には大きな相関がある。国民全体が賢くなって、そのような議論を支えられるようにするためには、結局、問題提起と小さな議論を積み重ねていくしかないのかも知れない。私の雑文もそのひとつ。(完)