練習問題としてのコロナ

(3月17日付け「学年だより№84」より②)

普通科社会問題研究・・・予告編】

 生徒、先生両方から評価票を出してもらった。評価が高かったのは、
602、610、612、702、902、906(班)といったあたりだ。
 詳細については来週、「学年だより」で特集を組むつもりだが、今日を含めて5日間の授業日のうちに、改めてよく見ておくとよい。それらが評価される理由を各自分析することが、来年度、進路決定の場面(特に大学の推薦・AO入試)で、相手の気持ちを引きつける発表のヒントを得ることになるからだ。ビジネス科の諸君も是非!

(裏面:2021年1月30日朝日新聞「時時刻刻」欄。見出しは、「コロナ罰則海外は」
 平居コメント:教養講座(→こちら)で松村弁護士から、選挙では「自分たちの自由・権利を尊重してくれる人を選ぶ」と聞いて、「それはいい!そんな基準があれば、自分もよい選択ができる!」と納得した人は多かったようだ。しかし、世の中はそんな物差し1本で判断できるほど単純にはできていない。最近のコロナを巡る動きは、考えるためのいい練習問題だ。
 感染を抑え込むためには、外出や営業の自粛や禁止、入院の強制など自由を制限することが必要になる。正に「自由・権利を奪う」ことだ。では、それらを行う人は、「人の自由を尊重しない悪い人」なのだろうか?もちろん、必ずしもそうとは言えない。記事の、特にドイツに関する部分によく表れているとおり、多くの人は、感染症予防のためには自由の制限が必要と考え、感染状況が悪化すれば、むしろ自由をもっと制限してでも感染症対策を徹底させろという批判も出てくる。
 日本国憲法第12条には、「国民はこれ(=自由や権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と書かれている。感染症対策は「公共の福祉」である。誰かの権利を制限することで、誰かの「生きる権利」を守ることになるわけだから、本来「個人の自由・権利」と「公共の福祉」は、決して対立する概念ではない。
 記事が出た時期に、日本の国会でも自由の制限を伴う「コロナウイルス特別措置法」等が議論されていた。与党と野党との間で議論されたのは正に、「個人の自由・権利」と「公共の福祉」とのバランスをどのように取るかという問題だった。詳細は書ききれないので各自で調べ、考えてみて欲しいが・・・ほら、もう面倒くさくなったでしょ?だけど、「良い主権者」になるためには、どうしてもそれができる必要があるのだよ。勉強、勉強!