反貧困への反論(1)

 毎日新聞で、反貧困活動家・雨宮処凛と法学者・谷口真由美による「ロスジェネ往復書簡」というのを連載している。月に一度かと思う。あまり真面目に読んでいるわけでもないし、先月以前の分を取ってあるわけでもないので、多少の誤解に基づくかも知れないが、昨日の連載で少し思うところがあったので、書いておくことにする。
 どうも、この二人に共通するのは、今の日本は貧しく庶民の生活は大変だ、それは政治の貧しさに基づく、と考えていることのようだ。例えば、昨日掲載されたものには、先月のお手紙(雨宮?)の要約というのが付いているのだが、そこでは「闇バイトに応募する人がいるのは、ひとえに日本が貧しくなったから」とし、「(闇バイトに応募するのは)人に頼るより少々怪しくとも自力で稼ぐのが正義だ」と考えるからだとして、自己責任論を否定する。昨日の谷口書簡でも、ワーキングホリデーを「出稼ぎ」とし、学生がそこに希望を語ることが増えているのは、「自分たちが根ざす土地では満足に暮らしていけないことの裏返し」だとする。世の中にはこんなに貧しく、苦しんでいる人がいるのに、政治は無為無策。そんな考え方が一貫しているように見える。そして、「日本国憲法は、幸福を追求する権利をうたっています。自力で幸せになれる人だけが幸せな社会は想定していません」(谷口)だ。
 本当かな?申し訳ないが、私には極端で例外的な弱者の側に立って自己陶酔している「正義の味方」に見える。
 日本において、政治家は国民が選んでいる。選挙という民主主義の根幹をなすシステムは、おそらくごまかし無しに機能していると信じられる。だとすれば、「頑張っているのに報われない庶民vs無為無策の政治家」という構図は間違いだ。政治が弱者の救済に無為無策だとすれば、国民が政治家の選択について無為無策だということであろう。
 他国に比べて日本の経済が停滞し、相対的に物価が安くなりすぎている(高くなれずにいる)というのは正しいだろうが、それはイギリスやニュージーランドに行くから感じるだけのことであって、日本国内で生活している分にはさほど問題にならない。
 闇バイトに応募するのは、脅迫的な自己責任論や貧困だろうか?先日、闇バイトによる強盗だか殺人だかで捕まった若者は、数百万円の借金を抱えていたそうだ。誠実に、普通の(もしくは質素な)生活をしていて、社会構造が悪であるが故に数百万円の借金を余儀なくされた、ということがあり得るだろうか?
 昨日の谷口書簡では、米の高騰にも触れる。「主食である米がこんなに上がってしまうと・・・」同世代の友人は「これまでのようにお米が買えない!」と悲鳴を上げているのだそうだ。米の値段が、昨年の2倍以上になっていると言えば、確かに、生活を圧迫するだろう。しかし、元々米の値段は安すぎたのであって、今年になってようやく正常化してきた、つまり農家が赤字で米を作る必要がなくなりつつあるだけである。しかも、高くなったとは言っても、30㎏=15,000円だとして、1合=茶碗2杯強の米代は75円に過ぎない。命を支える主食の値段として、これは高すぎるだろうか?あるいは、払えない人が出かねない金額だろうか?
 今日は12月29日。昨日から帰省ラッシュのニュースをよく目にする。高速道路も新幹線も国際空港も混雑がひどいらしい。自家用車や新幹線で遠くの故郷に帰省する人、年末年始を海外で過ごそうという人が例外的に裕福な人だとしたら、そんな混雑は発生しないだろう。ちなみに、年末年始、東京から新幹線「はやぶさ」指定席で仙台を往復すると、1人で23,620円かかる。米47㎏が買える金額だ。
 私が思い浮かべるのは、裕福な家庭の子が多いとは思えない勤務先の高校生である。3,000円の国語辞典には「高い!!」と大騒ぎするし、特価1500円で売っている『実用「哲学する」入門』は誰も買わないのに、ディズニーランドで遊んだり推し活で東京にライブを聴きに行ったりする費用は出せる。支出に苦労も抵抗(ためらい)もないように見える。毎日毎日、学校の自動販売機では清涼飲料水やペットボトル入りのお茶が飛ぶように売れていて、学校の隣にあるスタバ(!)でも、よく生徒の姿を見かける(私は前を通り過ぎるだけ)。そう言えば、昔、小学校で給食費の滞納が多いが、滞納する家庭が必ずしも貧しいわけではない、という話を聞いたことがある。要は、何にお金を費やすかというのは価値観なのだ。(続く)