ニワトリ/ひよこ

 我が家の居間には、昨年、年賀状を買った時にもらったカレンダーが掛けてある。約10㎝×25㎝、短冊状の小さなカレンダーだ。郵便局でもらっただけあって、一番上に動物の子どもをデザインした切手があしらわれ、その下に1ヶ月の日付が縦に2列で印刷されている。
 今月の切手は「ひよこ」だ。ところが、切手の隣には「ニワトリ」と書かれている。確かに、ひよこは大人になるとニワトリになる。鳥の種類としては子どもも大人もニワトリである。しかし、私たちは通常、ニワトリの子どもを「ひよこ」と言う。「言う」というのは「認識している」と同義だ。ひよこを描いた切手の隣に「ニワトリ」と書かれているのを見ると、私などはかなり大きな違和感を感じる。これは「ひよこ」であって「ニワトリ」ではない、ニワトリとは成鳥だけを言うのだ、と思う。
 先日、愛知と宮城の教職員異動の新聞について書いた時にも触れたのだが、言葉は分類し、分類は思想を表す。ニワトリを大人と子どもで分けるかどうかは、些細なように見えて、実は大切な問題である。犬や猿の大人・子どもと違って、ニワトリの大人・子どもは形状がかなり大きく異なる。知らない人間がひよこを見た場合、それが大きくなればニワトリになるとは絶対に想像できないだろう。だからどうしても分類する必要があったのだ。
 イノシシの子どもを「うりぼう」と言う。うりぼうを描いた切手の横に「イノシシ」と書いてあったら、私はどう思うだろう?おそらく、多少の違和感は感じるだろうが、「ひよこ」に「ニワトリ」ほどではないような気がする。体の模様は違うけれど、形はよく似ているからだ。ペンギンはどうだろう?ペンギンも大人と子どもではかなり形状が異なる。しかし、ペンギンの場合は、ひよこに相当する、つまりペンギンの子どもを表すための言葉が存在しない。これはペンギンが私たちの視野に入るようになってからの歴史の浅さを表しているのだろう。だが、「ペンギン」ではなく、やはり書くなら「ペンギンの子ども」だろうとは思う。いやいや、そもそも、人によっては、鳥の幼体を「子ども」と言うのはケシカラン、鳥の幼体に限って使う「雛」や「幼鳥」という言葉があるではないか、「大人」「子ども」は人間に限って使うべきだ、と言うかも知れない。これもまた分類・思想の問題である。
 4月、「ひよこ」切手が目の前に現れて来るまで、私は問題意識を持っていなかったので、表紙に何が書かれていたかは憶えていない。「動物の子ども」というような題が付いていれば、各月には何の子どもかだけを書くということで「ニワトリ」も許されるのかも知れない。しかし、表紙に書いてあったタイトルを、数ヶ月後まで憶えている人がそうそういるとは思えない。たとえ表紙に「動物の子ども」書かれていたとしても、毎月のページに、隅っこでもいいからそれを書いておく必要があるのではないか?
 いずれにしても、大切なのは「言葉は分類し、分類は思想を表す」ということである。わたしは「ニワトリ」でそれを改めて思い知った、ということ。


(補足)上の文章で私は「ニワトリ」「ひよこ」と表記した。「ニワトリ」はカレンダー通りの表記である。ニワトリは「ニワトリ」でも「にわとり」でもいいような気がするが、「ひよこ」はひらがながふさわしいと思い、あえて「ひよこ」と書いた。その方がか弱く柔らかな感じが表現できるからだ。また、ニワトリも「鶏」と書くと経済動物のイメージが、「庭鳥」と書くと得体の知れない特別感が強くなる。表現というのは難しい。