10月の後半、ちょっとした事情でいただいたL・D・レノルズ、N・G・ウィルソン(西村賀子、吉武純夫訳)『古典の継承者たち ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(ちくま学芸文庫、2025年)という本を読んだ。
文庫とは言っても、今時の文庫本とは思えない小さな文字がびっしりと並んでいて、本文と原注だけで500頁あまり、図版や索引その他を入れると600頁を超えるという大著である。文庫本の限界に挑戦!といった趣だ。タイトルを見て面白そうだとは思ったものの、専門外だということもあって、読み始めるのには相当な覚悟が必要だった。
(翻訳に費やした膨大な労力には頭が下がる。しかし、訳すこと自体は、大変でありながら知的に楽しい作業でもあっただろう。むしろ私が想像して圧倒されたのは校正だ。日本語とギリシア語とラテン語の書名と引用とが入り交じり、文字が紙面を埋め尽くしたこの本を、集中力を保ちながら校正することがどれほど大変な作業であったことか!!!!!!!!!!)
とは言え、せっかくいただいた本を「積ん読」も出来ないし、それよりも、新しい世界に目を見開くチャンスだと思ったので、何日にもわたり何度も深呼吸をした上で、勇気をふるって(笑)読み始めた。
身構える必要も、勇気を振り絞る必要もなかった。とても読みやすい。何と言っても、訳の日本語が自然かつ平易だからである。簡略ながらも、人名索引にいつの何者であるかが書かれているのもよい。情報量は膨大だが、込み入った論理があるわけではないので、その点でも読むのに面倒はない。
中国における書物の歴史などを考えてみると、ギリシア古典も、初めから今の状態で存在していたなどあり得ないことは容易に分かるはずだが、私は「オデュッセイア」も「ソクラテスの弁明」も「形而上学」も、なんとなく、つまりはまったく無批判に、当初のテキストがそのまま存在してきたかのような誤解をしていた。正に「誤解」である。タイトルの通り、それらのことについてこの本は多くを教えてくれる。エッセイ集でありながら『実用「哲学する」入門』と名付けられた誰かの本と違って(笑)、タイトルに偽りはない。
ところが、「読みやすい」と「分かりやすい」は決して同じではない。この本は、膨大な量の貴重な情報を、分かりやすく整理した本とは言えない。私はこの本を2回読んだが、それは内容に知的感興を覚えたと同時に、頭の中で整理するのに手間がかかったからでもある。
問題の一つ目は体裁だ。最初の段落で私は「今時の文庫本とは思えない小さな文字」と書いたが、どれくらい字が小さく行が混んでいるのかと思って、身近なところにあった典型的通俗小説と比較してみた。そして、正真正銘びっくり仰天した。どちらも40字×17行という書式が同じだったのである。絶対に同じ書式には見えない。
では、なぜこの本の文字が非常に小さく見えたのか?それはどうやら、紙面全体に強い圧迫感があるからであり、その圧迫感は段落が非常に長いことによっていると気付いた。
1段落が2頁を超えるのは当たり前で、時には3頁を超える段落さえある。その間に、たった一つのスペース(空きマス)さえ存在しない。そういう段落が延々と連続する。最近の本は段落を短くする傾向にあって、一文一段落さえ珍しくないから、なおのことこの本が異様に感じられたのだ。
おそらく、原書の段落がこのようになっているのだろうし、段落をもっと短くしてスペースを作れば、読みやすくなる代わりに頁が増え、文庫本一冊では収まらなくなって、営業的な問題が発生するのかもしれない。しかし、第一印象は大切である。書店で手に取った瞬間、窮屈な紙面に圧倒されて買わないという人もいるだろう。果たして、どちらの方がメリットが大きいか?
もう一つ。「第一章 古代」「第二章 東のギリシア語圏」「第三章 西のラテン語圏」「第四章 ルネサンス」「第五章 ルネサンス以降」「第六章 テクスト批判」という章立てを見れば分かるとおり、この本は基本的に編年体で書かれている。そして、それらの中には本とテクストに関する種々雑多な情報が詰め込まれている。第六章だけは少し異質だが、それ以前の章の中にもテクスト批判的な内容は含まれるので、その辺もすっきりしない。
最低限、「本」と「テクスト」に分けて、本の形、材質、字体、表記、図書館(所蔵)や出版、テクスト批判や校訂のあり方といったことが、時系列でどのように変化したかということを、項目別(紀伝体的)に整理する必要がある。その上で、個別の作品の歴史については、完全に紀伝体で整理して別巻(章)にするのがいいだろうと思う。
思うに、この本は「訳」ではなく、「監訳」の形にして、原書に含まれた情報を温存しつつ、整理し直せばよかったのだ。そうすれば、優れた「教科書」になり得ただろう。学びのチャンスが得られたことに感謝しつつ、そんな思いを抱いた。