文化の質はかけた手間暇に比例する



 年度の始めに当たり、今後、いろいろな場面で必要となる大切な考え方を二つ紹介しておく。

1:【文化の質はかけた手間暇に比例する】

 前任校では、文化祭に各クラスが独自の企画を出すことが義務づけられていた。ところが、各クラスで考えたことなら何をやってもよいかというと、必ずしもそうではなく、教員サイドから「文化的に質の高いものを」という注文が付いていた。ひどく抽象的な注文であるため、これがしばしば、と言うより常にトラブルの元になっていた。生徒の感性と教員の感性なんて自ずから一致する訳がない。生徒が「○○をしたい」と言って来るのを、教員が「そんなのは文化的に質が高いとは言えないからダメだ」と言い、その言い争いそのものが疲れるのはもとより、やがては生徒がヤル気を失っていき、一体何のための文化祭か分からん、という始末の悪いことになっていた。大変なのは、クラス担任であり、文化祭担当者である。そして後者は私であった。

 「文化的に質の高いもの」ってどのようなものだろうか? 根本的な解決とはいかなくても、もう少し明確にならないものか、という要望に応えて私がしたのは次のような話である。それは「文化」という言葉の意味に関わる。

 CULTURE(文化)とAGRICULTURE(農業)がよく似た言葉だとは、一見して誰にでも分かる。AGRIとは「畑」という意味の接頭語なので、「農業」とは「畑の文化」だということになる。また、CULTIVATE(耕す)という動詞の名詞化したものがCULTUREだというのも有名な話であろう。

 農業をして、質的にも量的にも優れた収穫を上げるために必要なのは、種の質と気象条件と、それを育てる人の労力である。収穫を文化の質の比喩だと考えてもらえばいい。高い質の文化を実現させるために必要なのは、才能と条件(その活動をしている時期の社会や家庭の環境)、そして労力である。この場合、才能と条件は基本的に変えようがないので、そういうことは考えないことにする。すると、「文化の質はかけた労力(手間暇)に比例する」と命題化することが可能となる。

 高い質の文化を手に入れるためには労力が必要だということは、逆の言い方をすれば、労力さえ費やせば高い質の文化は実現する、ということでもある。「カラオケ大会」のような、一見文化的な価値の低い、いかにも教員が嫌がりそうなものでも、1ヶ月の準備の必要な「カラオケ大会」であれば、難しげな百科事典の丸写しの研究企画をするよりも、よほど文化的に質は高くなるはずなのである。

2:【夢を実現させる方法】

 私は技術史の本が非常に好きである。技術開発は人間が夢を実現させる歴史そのものだからである。

何か画期的な技術を開発する場合、やりたいこと(目標)をはっきり持つことの必要性は言うまでもないだろうが、私がとても大切で面白いと思うのは、目標をはっきり持つという時に、その実現の可能性をあれこれ考えてはいけない、ということだ。始めに可能性を考えてしまうと、たいていは「ダメに決まっている」ということになってしまう。しかも、最初に「これなら出来そうだ」と思える程度のことであれば、目標そのものがたいしたものではないし、そもそも人間はワクワクするような興奮(「夢」とも言う)を感じることが出来ず、従って意欲も高まらない。可能性は考えずに、実現のための方法を考える、これが大きな事をするための基本姿勢だ。それで失敗したとしても、得られるものは、実現可能なレベルで設定した目標よりも大きいはずだ。