ミャンマーで考えたこと



 冬休みのほとんどをミャンマーで過ごした。せっかく時間をもらって旅行してきて、なかなか諸君に還元するチャンスがないので、年の初めに、簡単なレポートを書いてごまかそうと思う。

【その1:人が快適に暮らすための条件】

 学生時代に、人よりもあちらこちらを旅行したため、私はよく人から「旅行に行くとしたらどこがいいか?」「今までで一番良かった国はどこか?」という質問を受ける。これは人の趣味に関わることなので、私としても困るのであるが、やむを得ず答える時には、チリ、トルコあたりを挙げることが多い。ミャンマーが、この上位二傑に食い込むかどうかは?であるが、私の私的リストで相当上位に入ることは間違いがない。

 その理由は何か?それは人が信用できるからである。幸か不幸か、日本人は世界で最も(?)金持ちである。そのため、世界には日本人との人間関係は、イコール金銭関係である、という風潮が少なくない。これが、実にしばしば不愉快の原因となるのである。すなわち、安易に人を信用したがためにだまされたとか、ひどい話になると、薬で意識不明にされ、身ぐるみ剥がれたとか、真偽は知らず、そんな話を残念ながらたくさん耳にする。

 ミャンマーではそんな話を聞かない。私は、どこかの国に入ると、信用できる人に物の値段の相場を尋ねた上で、実際、街でそれらの値段を尋ね、相手が日本人旅行者にどれだけの適正価格+αを求めてくるか実験してみるのだが、驚くべきことに、αはほとんどゼロであった。その後、僅か12日間ではあるが、例えば1000円の約束でタクシーに乗って、降りる時に1500円要求されたとか、親切にしてもらって喜んでいたら、チップを請求されたとか、のような不愉快を、私は全く経験しなかった。最初の1〜2日で、どうもミャンマーの人は信じてよさそうだ、と思った私は、その後、街で人と知り合い、誘われれば誘われるままに家を訪ね、勧められれば勧められるままに飲み食いしたが、不安もなく、豊かに人間的な時間を過ごすことが出来た。思えば、何かを盗まれたという話さえ聞いたことがない。治安などというものは、短い期間にどんな人と出会うかという偶然に左右される要素が大きいので、軽率に評価することは危険なのだが、そのことを重々意識しつつも、やはりミャンマーはいいような気がする。

 人が快適に暮らすために、正直、親切ということ、人間が人間を信用できる、疑わなくて済む、ということがいかに大切であるか、思い知ったような気がした。

【その2:強者と弱者】

 ミャンマーは想像をはるかに上回って貧しい国だった。人の家や、公共交通の混雑を見ていてもよく分かるが、なんといってもよく分かるのは1$=320K(チャット)というレートである。このレートで両替すると、例えば食費が1日150円とかいうことになる。宿泊費や列車、船、飛行機はドル払いが義務づけられているが、例えば宿泊費など、私がバガンやニャウンシュエという街で泊っていた所では、バス・トイレ付のこざっぱりしたシングルルームが、朝食、レンタサイクル代込みで3$といった具合であった。私達日本人から見れば、高校生の小遣いの感覚でもってしても、馬鹿みたいに安いのである。

 このことを、一旅行者の立場で、私はストレートに喜ぶことが出来なかった。ミャンマーの人が底抜けに善良であるだけに、経済格差というものはこんなにも残酷なものなのか、という居心地の悪い思いばかりが強かった。

 私が経済的に強者であり、彼らが弱者であるのは、少なくとも私個人、彼ら自身の責任ではない。私が今までに努力したからとか、実力があるという理由で、彼らよりも優位にいるのではないのである。彼らの中には、貧しくて学校へ行けない人も多い。しかし、個人的に努力して私よりも英語が話せるとか、真面目に仕事をしているとか、それぞれの職の分野で優れた技術を持っているとかいった人が少なくない。しかし、彼らはいくら一生懸命に努力をしても、決して私と同レベルの収入を得ることは出来ないのである。

 何が違うのだろうか?確かに、日本人とミャンマー人といったレベルで比較すれば、日本人の方が多少勤勉だということはあるかも知れない。しかし、それとて、様々な条件に守られてそれが発揮できればこそ、である。日本は寒からず暑からず、一年中平均して仕事が出来る。ユーラシア大陸の東の端の島国で、歴史上他国の侵略を受けなかった。第二次世界大戦後の復興期に朝鮮戦争があり、自国を戦場にすることなく、利益だけを得た・・・。結局私には「運」の違いとしか言いようがない。少なくとも、今の私(達)の実力では決してない。

 きれい事に過ぎないかも知れないが、私達は強者であることの上にあぐらをかいている訳にはいかないのではないか、と思った。つまり、自分たちが強者であって、いい思いが出来れば、競争で負けて弱者となっている人がいても、それは仕方がない、と考える訳にはいかない、と思うのである。では具体的にどうするというのか?と問われれば、答えには窮するのだけれど・・・。

【その3:学ぶことは】

 恐らく諸君も知っている通り、ミャンマーは現在、軍事政権による独裁状態にある。ノーベル平和賞受賞者アウン・サン・スーチー女史が、いまだに自宅に軟禁されており、民主主義を求める運動は徹底的に弾圧されている。私も、今回の短い旅行中に、私服警官によるかなり陰険な厳しい取り締まりがある(らしい)にも関わらず、多くのミャンマー人の「私達には自由がない」という声を耳にしたし、母親を現政権に射殺されたという青年にも会った。

 不勉強な私は、ヤンゴンで初めて知ったのだが、現政権は、民主主義運動を弾圧する方法の一つとして、この数年来、大学を閉鎖しているそうだ。どこの国でも(日本は除くかも知れない)、大学は反体制派政治運動の拠点になりやすいからである。私が聞いた限りでは、現在、授業をしているのは、ミャンマー第二の都市・マンダレーにあるサーサナ大学という仏教学部しかない大学だけであった。これは、国民の85%が帰依する仏教(界)が、反体制集団にならないようにするための懐柔作戦の一つであるとも聞いた。

 小・中・高は授業をやっている。しかし、この貧しい国で、小学校さえ政府は授業料の10%しか補助せず、親が90%を支払わなければならないらしく、就学はなかなか容易ではなさそうだった。そもそも、子ども達は、自分の食い扶持を自分で稼がなければならない状態なのだ。学校どころではない。

 このような状況下、青少年の学ぶことへの欲求は本当に切実である。「勉強して○○を身に付けたい」「大学へ行き、勉強したい」「あなたは大学を出ている。すばらしい!」という彼らの声を聞くのは、私にはつらかった。切なさすら感じてしまった。今、受験だ、困った、と言っている諸君には虚しくも聞こえるだろうが、学ぶこと、学校へ行くことというのは、まさしく私達にとって権利であり、それはどこにいても自ずから与えられるものではない。まして、義務であり、苦しみであることはあり得ない。日本の学校にいると、往々にしてそんなことを忘れてしまう。

【余談】年齢を聞かれて、「37歳だ」と言うと、誰も信じてくれない。25〜30歳くらいに見えるという。これが、帰宅後の私の自慢である(笑)。

(注)この時のミャンマー旅行については、40ページ余りの私家版旅行記がある。100部ほど作ったものの、図書館等に納本はしていない。読みたい人がいれば、直接私に相談して欲しい。