「祝」東北新幹線全線開業



 今日、東北新幹線が全線開業を迎えた。青森にとってもJRにとっても、国鉄時代以来三十数年越しの悲願だったという。

 私は、知る人ぞ知る鉄道ファンである。いや、鉄道ファンであった、と過去形で書くべきかも知れない。新幹線開業のニュースを見ながら、これでまた鉄道がつまらなくなったな、と思う。新幹線が開通するたびに、多種多様な在来線の列車がなくなり、新幹線と普通列車だけによる規則通りの単純単調・整然としたダイヤになる。我が家には、1970年頃からの鉄道時刻表が断続的に保存されているのだが、新幹線が伸びるに従って、鉄道が無味乾燥になっていく様子、無残と言ってもよいほどである。ダイヤだけではない。いかにも地道な労働を体現したような古びた車両がどんどん廃車になり、見かけだけは立派な張りぼて式の車両が増えた。

私が困ったことだと思うのは、単に鉄道を「趣味」とする脳天気な傍観者としてというだけではない。長野新幹線開業時に、在来線を切り捨てて第3セクター化するという悪しき手法が導入され、今回の青森開業で、またその区間が伸びた。新幹線の延伸は、地元の足をないがしろにして、利益を最優先とし、しかも東京との関係でのみ考えるという思想の延伸でもある。地の利が悪いために停滞を余儀なくされている地方にとって、新幹線は神の手に見えるかも知れないが、時折言われる通り、東京という超大都市と結び付いた時、全体として富は東京から地方に流れるのか、地方から東京に流れるのかと言えば、強者と弱者のどちらが勝つのかという問題であって、答えは自ずから明らかであろう。あまり浮かれていない方がいいと思う。

 もうひとつ、私は私自身の旅行論として、「旅行は点ではない、線である」とよく語る。目的地を見ることだけを旅行と考えるのではなく、そこに至る過程も含めて旅行であるべきだ、ということである。二点間を結ぶ時間は短縮されればされるほど、旅行は「点」に近づく。これはいわば「デジタル」の発想である。紙の辞書より電子辞書、書店よりもAmazonというのとよく似た発想で、それはビジネスには良くても、旅行にとっては決して幸福なことではないのではないか。

先日、私が最近原田泰治という画家の絵に熱中していることを書いた。日本人の心の故郷、原風景を描いたと言われる彼の絵には、あまり指摘されない大きな特徴がある。それは、船と鉄道はよく登場するのに、車はほとんど出てこない、ということである。彼の絵を見ながら、この人は鉄道が好きなのだな、ということを私は強く感じる。時代の流れや、いわゆる「発展」を否定しているかの如き彼の絵と、文明の利器・鉄道が違和感なく結び付くことの意味は小さくない。また、やはり良き昭和を描いた映画『男はつらいよ』シリーズで、監督・山田洋次氏は、ロケ地の選定に当たり、鉄道の通っている町であることを条件にしていたという話もある。

 だが、鉄道というものが感じさせるゆったりとした情感とドラマは、新幹線には全くない。数十年後に平成20年代を画家や映画監督が描く時、その風景にあえて新幹線を加えたくなる可能性は低いだろう。青森には、「はやて」や「はやぶさ」ではなく特急「はつかり」、いや、出来れば旧型客車の普通列車や急行「十和田」「八甲田」で行きたいと思う。それが時代遅れなノスタルジーであるとすれば、自分はもはや老いぼれなのだと思う。なんだか、年を取るということの意味を思いながら、私は寂しく東北新幹線全線開業のニュースを見るのである。