『泰治が歩く』を読む



 小説でも音楽でも絵でも、今まで何の魅力も感じていなかった作家の作品が、この上もなく素晴らしいものに見え始めたり、逆に、今まで素晴らしいと思っていたものに、一切心動かされなくなったりする。このような経験は、少なくとも大人なら、誰でも持っていることだろう。

 最近、突如として、私は原田泰治の絵に、どうしようもないほど魅力を感じるようになっている。原田泰治なんて、少なくとも20〜30年も前から有名な画家だし、私だって、『朝日新聞』日曜版に連載されていた「原田泰治の世界」なる連載を始めとして、今までにも数多く目にしていたのである。しかしながら、それに特別に心引かれるのを感じたことはなかった。むしろ、最初のうちは、「なんだ、こんな人に目鼻もないような絵で飯が食えるのはいいなあ」程度のことしか思っていなかったように思う。ところが最近、切手のデザインとして繰り返し目にしているうちにか、これがとんでもなく素晴らしいものに思われ始め、「熱中」と言うに近い領域に入りつつある。得体の知れない今時の世の中に対する反感、拒否感が、私にこのような純粋・素朴な絵を求めさせるのかも知れない。

 ひどく月並みな言い方だが、そこには、現在では失われた昭和の素朴な温かさが充満している。題材だけの問題ではない。色も構成も素晴らしい。もちろん、あったに違いない労働の厳しさや貧しさ、不潔、病気、短命といったマイナス面は一切描かれていない。そのような、ただほのぼのと美しいだけの絵は片手落ちだ、という批判もあるだろう。しかし、これは歴史学の文書でも科学的説明文でもない。作者が、自分の原風景を愛着を込めて描けるのなら、そしてそれを見る私の側でも、作者の愛着に共感し、心癒されるのなら、それでいいと思う。

 そんな中、原田泰治の父・原田武雄氏が書いた『泰治が歩く』(講談社文庫)という本を読んだ。これは、予想外に素晴らしい本だった。「予想外に」というのは、素晴らしさの程度においてもだが、内容もまた「予想外」だったのである。つまり、私は、原田泰治という時代の寵児とも言うべき画家の生い立ちを、父親の目でつづった、すなわち、原田泰治が主人公の物語だと思っていたのだが、決してそうではなかった。むしろ、原田武雄氏の人生、もしくは、昭和を生きた、ある家族の歴史と言うべきものであった。

 そこに描かれた家族は、貧しく、常に厳しい労働に追われていた。白い飯などなかなか食えない。泰治の足が不自由だというだけでなく、4人兄弟は、貧しさの故に学校を中退せざるを得なかったり、進学を断念させられたりもしている。しかし、支え合わなければ生きていけない状況の中だからこそだろう、家族全体の生存のために各自が自己犠牲を払い、努力と忍耐とによって問題を乗り越え、強い家族の絆をもって激動の時代を生き抜いていく姿は感動的である。中でも、泰治が3歳の時に亡くなった著者の妻の後に、後妻として嫁いできた、自らも足が不自由な「か津み」の忍耐と献身に満ちた無私の精神には、私達も著者と共に畏敬を持って泣くしかない。まったく、身内から戦死者が出なかったことを除いて、良くも悪くも「昭和」というものを濃縮したような家族史だと思う。無名の庶民の生活記録として、第一級のものなのではないだろうか。原田泰治がひときわ重要な存在であるのは、後に有名になったからではなく、体に障害を持っていたからである。

 実際、原田武雄氏は、息子・泰治が有名人になったからこの本を書いたのではなく、折に触れて自分の人生の記録を書き綴っていたらしい。私達は、原田泰治という画家を起点としてこの本を読んではいけないと思う。結果が出てしまった後で、そこに至る過程を見るのは、結果が分からない状態で、よりよい生き方を模索するのと決定的に違う。

 例えば、坂本龍馬が、後世において英雄的な扱いを受け、小説や大河ドラマの主人公になってしまった後で彼の脱藩を見れば、それが後の坂本龍馬にとって重要な、一つの転換点だった、という「評論家」のコメントを述べるのは容易である。脱藩など誰でも出来そうな気になってしまう。しかし、その後の彼の人生がどうなるか、歴史の中で彼の役割が評価されるようになるなど、万に一つの確率ででも考えられなかった脱藩当時に立ち返ってみると、その決心の悲壮さ、まして家族の思いは想像を絶する切羽詰まったものであったに違いない。原田武雄氏が描く家族史には、そのような現在形の緊張がある。

 これ以上説明は出来ない。説明しようとすれば、せっせと、本文を書き写すことになってしまいそうだ。

 最近、授業の関係で、科学技術の発達で生命操作が行われるようになると、人間は果たして幸せになれるのか、というテーマの評論を読んだ。さもない文章であるが、ひとつだけ、共感を持って読んだところがある。それは、人間の幸せとは、思い通りにならない境遇にあって、それを切り開くべく主体的に生き切ることによって初めて生まれて来る、という考え方である。確かにそうなのだ。そして、そのようにして得られた幸せは、人を動かす力をも持っている。『泰治が歩く』を読みながら、繰り返しそんなことを思っていた。