マイヨールの死と訃報の意味



 前回、適当な新聞記事がなかったので、このプリントの裏に、池澤夏樹という作家がジャック・マイヨールという人について書いた文章(『クジラが見る夢』の一部)を印刷しておいた。新聞記事の補欠とはいえ、なかなかいい文章だと思う。しかし、私は、池澤という作家にも、マイヨールというイタリア人にも特別な思い入れがあった訳ではない。1月に我が家を訪ねてきた信頼すべき卒業生が、「池澤夏樹はいい!!」とさんざん宣伝するので、薦められるままに何冊か読んだ中に、たまたまあのような文章があった。ただそれだけである。

 そうしたところ、全く偶然、その数日後、雑誌『Play boy』の新聞広告に、「J・マイヨールはなぜ自殺したのか」という見出しを見つけて驚いた。私はマイヨールが死んだことを知らなかったのである。何となく気になって、『Play boy』を求めて書店に行った。記事を読んでも、結局、自殺の理由はよく分からなかったが、昨年12月22日に、イタリアのある島にある一人で暮らす自宅で首を吊って死んだことは分かった。75歳。「訃報マニア」とも言うべき私も、たまたま12月23日から日本にいなかったために、彼の死に気が付かなかった訳だ。

 思えば、今年度も授業中に折に触れて訃報を取り上げ、幾人かの人生について語ってきた。ex,トーベ・ヤンソン、張学良、ギュンター・ヴァントetc・・・。誰にとっても人生は重いのだけれども、新聞やTVで訃報が流される人は、優れた業績があったとか、特別に波瀾に満ちた人生を送った人に限られるので、なおさら、人生というものの重さ・不思議さを強く感じさせるのであろう。マイヨールは海に惚れ込み、イルカやクジラと戯れ、(記録として確かめられるものとしては)人類史上初めて身体一つで100mまで潜るという記録を作り、映画(『グラン・ブルー』)の主人公となり、プレイボーイとしてならし、カリブ海南イタリアを往復しながら、自由奔放に生きた。そんな人生が完結した。

 中国には古来「棺を蓋ひて名定まる」という言葉がある。簡単に訳せば、「棺桶の蓋を閉めた時に、初めてその人の評価を定めることが出来るようになる」ということになろうか。生きている人は常に変化の過程にある訳だし、その人に関する評価は周りの人の利害によってゆがめられることも少なくない。だから、本当に冷静に、その人物の価値を決めることが出来るのは、その人が死んだ後なのだ。私はこの考えは正しいと思う。と同時に、人間は死ぬまで成長を続ける生き物だ、と、半ば励まされているような気にもなるのである。