個性的な教師の消滅



 教育実習最終日であった昨日の夜、私は6名の実習生と街へ繰り出した。実にいろいろなことを語り合い、大変楽しかった。みんな、ただ単に教員になりたいというだけでなく、各自、自分なりの理想の教育観というか教師像というものをしっかり持っており、少し油断すると惰性に流されかねない私にとって、まずそのことが新鮮だった。「生活が安定しているから」というだけで、教員を含めた公務員希望者が増えているという昨今、あのような若者を見ているとホッとする。

 少し気になることもあった。そのように彼らは熱く教育(学校)を語りながら、彼らが石高在学中に接した幾人もの先生の話をし、そして「今回実習に来て、個性的な先生が減ったような気がする。寂しい」と語っていたことである。それは彼らのノスタルジーだろうか?いや、私もそんな気がする。そして、考えてみると、今や「伝説」にさえなったような個性的な先生達は、単に彼らが定年を迎えたというだけではなく、石高が「進学率のアップ」なるものをやたら声高に言うようになってから、存在の場を失っていったような気がするのである。学校として進学対策を言えば、機能的であることが求められ、強烈な個性は邪魔になる。そもそも受験に必要な知識や技能そのものが、ひどく単純、事務的で、個性的な人には耐え難いような世界だ。それらが両立し得ないものだとして、「人生」全体というスケールで考えた時、大切なのは一体どっちなんだろう?「無用の用」という言葉を思い浮かべながら考えてしまった。