競争と本質



 県総体期間中、当然、私はワンゲルの諸君と山へ行っていた。「登山競技」とは何を競うのか、と実にしばしば尋ねられるのであるが、この疑問は正しい。本来、競争に馴染まないことを無理に競争に仕立て上げているのだから・・・。登山競技は、テントの設営、医療・気象・自然等の筆記テスト、歩行技術(山の中に審査員が隠れていてチェックする!)等を点数化し、100点満点で競うというものである。と書くと、それなりの合理性もあるように見えるが、差が付かないと困るのだろう、実際には相当不合理な基準も多く含まれている。私はバカバカしいから止めればいいのに、と常に思っているが、「競技」を成立させなければ「登山」が高体連から「スポーツ」として認められず、高体連にスポーツとして認められなければ、各学校で「部活」として認められにくいという事情があるらしい。変な話だ。サッカーや野球は、「競う」ことを抜きにしてスポーツとして存在し得ないであろう。登山はそうではない。山に登るということ自体に、人は価値を感じるのである。

 さて、私は今、自分の欲求不満のはけ口としてこんなことを書いているのではない。以下の点につき、諸君に考えて欲しい、と思うのだ。

 マラソン大会での私を見ていて、諸君は私が「勝負」に執念深くこだわる人間であることはよく分かっているだろう。しかし、私は、勝負にこだわるべきことと、こだわってはいけないことのケジメをつけることは非常に大切だと思っている。ケジメをつけないとどうなるか?先の例で言えば、登山の素晴らしさ=登山競技で勝つこと、となり、登山の本質を見失うことになるのだ。

 大学入試は、各大学の定員が決まっていることから必然的に生ずる「競争」であり、そこで勝つことには徹底的にこだわる必要がある。しかし、決して誤解してはいけない。人より良い点数を取ることの快感=勉強の面白さ、では決してない。未知の世界が自分にとって既知の世界に変ること、つまり、分からなかったことが分かるようになること、それによって世界が広がること、そのことが勉強の面白さであり、勉強することの価値だ。

 どんな状況下にあっても、原点を見失わないこと。難しいが価値のある作業である。