原敬の墓



 先週の火曜日、私は出張で盛岡へ行った。仕事が終わったのが4時半。まだ明るかったので、そう急いで帰ることもあるまいと、市内を散策することにした。地図で見つけて出向いたのは原敬墓所である。私は訃報や墓を前にして、人の人生をたどり、考えるという作業が大好きなのである。

 原敬(1856〜1921)の墓は、盛岡市の中心部から少し南にずれた所、大慈寺というお寺の境内にあった。総理大臣になった有名人だけあって、墓所の入り口に解説を書いた案内板が立っている。面白いなぁと思いながら、それを読んだ。それによれば、平民出身で民主主義者の原敬は、あらゆる位階勲等を拒否し、若い頃に洗礼を受けてクリスチャンとなり、死後は仏教寺院に葬られるにもかかわらず、生前からクリスチャンネームや戒名ではなく、「原敬」という一個人として葬られることを望んでいたそうだ。そして実際、墓石には、何の肩書きも付けられず、「原敬墓」という文字だけが刻まれていた。立身出世ということが非常に重んじられていた当時、そのような考え方をした人は珍しいのではあるまいか。

 原敬という人は、最初の政党内閣を作った人で、平民宰相などと呼ばれながら、社会運動を弾圧し、普通選挙の実施を拒否するという全く矛盾した政策を実施した人で、私はあまり心証よろしくないが、そのような「名誉」についての考え方、死に際しての姿勢はたいへん立派であると感心した。何しろ私は、地位・肩書き、まして位階勲等などというものは、自分自身の価値や生き方に自信のない人が、周りに向って威張るために大切にするものであり、そのためにのみ価値あるものだと思っているから・・・。

 原敬の墓を前にして、そんなことをあれこれ考えていた時、ある本の一節が頭に浮かんだ。面白いので裏面に印刷しておく(塚本哲也エリザベート文芸春秋社より引用)。いくら大金持ちでも、金を持って死ぬことは出来ない(死後の世界に金を持っていくことは出来ない)とはよく言われることだが、死という誰にでも平等に訪れる現象を前にした時、全ての人は平等に小さな存在となる。だが、本当は、それは死を前にした時でなくても同じことなのだ。謙虚に生きること、飾り(位階勲等など)に惑わされることなく人間として本当に価値のある生き方をすること、そんなことの大切さを思った。