大学の出席



 週末、天気の悪い中、例によって山岳部の諸君と山へ行っていた。南蔵王である。比較的気温は高かったが、雨が降っていたこともあってか底冷えがし、とても寒かった。宮城県の最高地点・屏風岳(1817m)頂上付近では、先週降った雪が、ほんの少しながら残っていた。

 夜、することもないので、一緒に行ってくれたOBと、テントの中で四方山話にふけった。彼は、県内の某私立大学の先生である。私「最近、卒業生から大学の授業で出席を取るという話を聞くことが多いように思うが、本当か?」彼「実は最近そういう授業が多い」私「学生が、出席を取られるからという理由で授業に出るようになれば、次は、先生が何を、どのように教えてくれるか、という話になるだろう。バカな遊びも含めて、学生が自由に何かをし、学ぶ機会も失われるということだ。自らテーマを見つけ、主体的に学ぶという姿勢があって初めて成り立つ大学での学問からすると、自殺行為ではないか?」彼「自分もそう思っている。しかし、最近は学生が出席を取って欲しいと言い、それを聞いた学生課から教員に対して、出席を取った方がいいのではないか、と言って来る。強制ではないようだが、断ることは非常に難しい」私「学生が出席を取れと言うのであれば、なおのことケシカラン。勉強する気が全くなく、授業に出ることによってのみ単位を取ろうという魂胆が見え見えではないか。そんなのは高校まででたくさんだ」・・・と書けば、私が不遜にも某大学教員を叱りとばしているようにも見えるかも知れないが、決してそんなことはない。二人の考えは、ほとんど一致していたのである。

 出席を取られるから授業に出、先生の「お話」を素直に聞いてノートを取り、試験のために勉強し、という受け身の勉強は、高校で優等生となるのには有効で、基本としては決して無意味ではない、むしろ大切かも知れないが、新しいものは何も生み出せない。個性的で面白い人間も、優れたリーダーシップを発揮する人物も生まれてこないだろう。やはり、学ぶ上で必要なのは能動性だ。