引っ越しから古典へ



 我が家は今週の日曜日に引っ越しである。行く先は仙台市内にある妻の実家であるが、別に私が「マスオさん」になるわけではない。石巻の自宅を改築する間、まあ来年の春までを目途とした一時的な「宿借り」「居候」である。ともかく、この半月ほど、その準備のために大変な思いをしている。

 何しろ、10年間、住人の数の割に大きな家に住んでいたため、家の大きさに合わせて物が増え続けてしまった。もとより、私は流行を追わず、使えるものは決して捨てず、買い換えず、一般から見ると極めて質素で地味な生活をしている(と思う)。本とCDが極端に多いのだけは自覚していたが、その他はたいしたことがないと思っていた。ところが、いざ作業に取りかかってみると、「使えるものは捨てず」の性格(方針)が禍となってしまったことに気が付いた。自分が新たに物は買わなくても、人からもらうものはどうしようもない。

 と言うわけで、今までの生活の「反動」であるかのように、もったいないとか何とかブツブツ言いながら、せっせと物を捨てている。ここでしみじみと思うのは、「古典=classics」の意味だ。当たり前だが、いい物は取っておきたい、価値のない物は捨てる。かくして、以前に比べると、身の回りにある物の質は平均すると幾分かは高まったようだ。人間はこうして、古来、取捨選択を繰り返し、人類全体の財産と呼ぶに値するよい物だけが生き残ってきたのだろう。何百年もの批判(取捨選択)に耐えてきた物は偉大だ。