卒業に込められた思い



 週末は、仙台市内の六つの山岳会が合同で行う遭難救助訓練というのに、山岳部の生徒諸君と一緒に参加していた。昨日は、訓練が思ったよりも早く昼に終わったので、ちょっとだけ仕事をしようと、帰路、一高に寄った。人気のない静かな学校を予想してきたところ、驚いたことに学校から車が溢れている。すっかり忘れていたのだが、昨日は通信制の卒業式だったのだ。

 私が着いた2時は、ちょうど一切が終わって、皆がぞろぞろと学校を出る頃であった。着飾った女性が沢山いて、まるで違う学校に足を踏み入れたかのような気分がした。事務室で聞けば、今年の卒業生で最も長く在籍していた人は、多分8年とのことだった。全日制とは比較にならないほど、一人一人の卒業にドラマがあったんだろうなあ、と思った。

 私の前任校には定時制があり、卒業式は合同で行われていた。答辞は全日制代表と定時制代表の2名が述べるのだが、毎年、定時制の答辞には多くの人が泣いた。正直言って、学力水準が相当に違う全日制と定時制の卒業生が、全く同じように、通し番号の着いた卒業証書をもらうことに、不満にも似た声を耳にすることがあったが、そんな声も、式の後には絶対に聞かれなかった。通信制の卒業生を見ながら、ふとそんなことを思い出した。 世の中には、本当に多くの、様々な能力、境遇の人達がいて、それぞれが、自分なりの幸せを求めて努力をしている。諸君の在籍する一高の全日制は、世の中全体で見た場合、成績極めて優秀で、家庭的にも非常に恵まれている生徒の集まった特殊な世界である。私が見ていて恐ろしいと思うのは、この特殊な世界で育った人が、世の中のリーダー的存在となって、自分たちを基準にして、住み心地のよい世の中を作ろうとすることである(一高同窓生が熱心だという学区制廃止の運動なぞに、その具体化を見る思いがする)。そうすると、悪意のあるなしに関係なく、結果として、社会的弱者をより虐げる方向に動いてしまうことになるのだ。

 諸君には、自分たちの世界の外に、あまりにも広い違う世界があることを知って欲しいと思うし、その意味でも、通信制との間にもう少し交流があればいいのに、と思った。