義務と自発性



 いかにも「五月晴れ」、気持ちよく晴れ渡った週末であった。我が山岳部は、例によって山へ行っていたのであるが、私は同行しなかった。私が山岳部の山行に同行しなかったのは、少なくとも一高に来てからは初めてである。今年新たに顧問になったK教諭が、今までの顧問と違い、一緒に山へ行ってもいい、というようなことをおっしゃるので(今までの顧問が怠慢だったのではない。一高は部活の数が多すぎるので、ほとんどの教員が2〜3の部の顧問かけ持ちしており、その全てに付き合うことは不可能な状況にある。そこで、自分が正顧問となっている部活だけは責任を持って引き受け、他は特別なことがない限り省略、ということが必ず起こる。なお、一高の部活が51と異常に多いのは、部活の存廃が生徒総会に任され、教員側の事情がほとんど考慮されなかったことによる)、一度行ってもらおうか、例によってOBコーチも来るので、私は付いて行く必要はないだろう、と考え、私は「緊急時連絡先」ということになった次第である。

 山岳部の活動に付き合うことは、今まで、私にとって絶対の「義務」だった。体調や家庭の事情で生徒は欠席できるし、OBも固定ではないが、私だけが代わりがおらず、私がサボれば部活動は停止する。私が今回初めてサボって思ったのは、そのような絶対の「義務」から逃れたことの解放感である。もちろん、私は今まで山岳部を非常に苦にしていたというわけではなく、今後へ向けて放り投げたわけでもない。今後も基本的には私が付いて行くつもりである。しかし、「絶対に行かなければならない」から行くのと、「代わりに行ってくれる人はいるがあえて」行く、のでは、気分的に天と地ほどの違いがあるということに気が付いた。私は、今回休んだことによって、次回からはかえって能動的に部活に行けるようになった、と思う。

 ところで、福知山線で大規模な列車事故が起こってから間もなく1ヶ月になる。運転士のミス=スピードの出し過ぎが直接の原因ということだが、その背後に、少しでも多くの列車を、秒単位で正確に走らせなければならないという、JR西日本とその他の私鉄の激しい競争があり、また、それを求めてきた多くの人々がいたことが指摘されてもいる。JR西日本は、遅れを出した運転士には厳しい社内教育を行っていたらしいし、事故を起こした列車は、1秒の余裕もないダイヤの組まれた、つまりあらゆる条件がそろって初めて定刻運転が可能な最速列車だったそうだ。

 完全であることが義務だった運転士は大変だったと思う。そして、異様なレベルで完璧な運転を求めなくても、運転士は、その職業意識と使命感によって定刻運転には努めたに違いない。同じ定刻運転でも、厳しい処分をちらつかせながらそれを義務として求められるのと、能動的な意識によって行われるのとではずいぶん違うはずだ。

 私は、部活のことから、そんなことへと思いを馳せ、更に、これはいろいろなことへの応用の利く問題であるに違いないと思った。おそらく、諸君の身の回りにも、これに当てはまる事例はごろごろしている。