芸術の価値と賞の価値



 栗駒山から下りて、我が家で一息ついていたところ、突如(←当たり前)携帯電話が鳴った。T君からであった。興奮した声で「吹奏楽部が今、金賞を取りました」という。隣にD団長もいた。千葉県までご苦労なことである。なんでも、この大会が始まって5年目で、東北地区の代表が金賞を取ったのは初めて、という快挙だとか。

 この快挙に水を差す気などさらさら無いのであるが、多少興醒めな私の思うところを書いておこう。

 私のように現場で演奏を聴いていない人間が、「金賞」と聞いて「素晴らしい!」と思うとすれば、それは「金賞」についてであって、演奏についてではない。それを演奏の良し悪しと混同する時、演奏の良し悪しについての判断を、審査員に全面的に委ねてしまっていることになる。仮に金賞を取った彼らの演奏を聴いて、私が何の感動もせず、「銀賞だったA高校の演奏の方が素晴らしかった」などと思うことがあれば、それは私の間違い、ということになるのだろうか。そうではないだろう。

 1980年の第10回ショパンコンクールポーランドワルシャワで5年に1回開かれる、極めて権威あるピアノのコンテスト)に、ユーゴスラヴィア出身のイーヴォ・ポゴレリッチという人が出場した。とても癖のある人で、この人が2次予選を通過した時、「こんなピアニストを合格にするなら、私は審査員を降りる」と言って、一人の審査員がコンクールの途中だというのに辞任してしまった。次に、このピアニストが3次予選で落選したところ、今度は別の二人の審査員が「彼は天才だ。彼を不合格にするようなコンクールで審査員などやっていられない」と言って辞任してしまった。この出来事は何を物語るだろうか?

 芸術的価値の高い低いなど主観的なものである。もちろん、世界の頂点を争うようなレベルならともかく、高校生の吹奏楽コンクールごときは、そんな価値観の対立など生じるはずもない、という意見もあるだろう。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そして、そのことまで含めて自分で演奏を聴いて判断すべきなのである。そのような姿勢を持たない者からは、「独創的」なアイデアなど生まれてくることはないはずだ(人の顔色をうかがうことになるから)。

 以前、ある高校で、美術の某コンクール全国大会で優秀賞を取った女生徒が、「みんな、おめでとうって言ってくれるけど、誰も私の作品を見たいとは言ってくれない」と言っていた話を聞いたことがある。ここに含まれる問題は深くて大きい。