推定無罪の原則



 ホリエモンこと堀江貴文氏が逮捕されてから、もう10日余りが過ぎてしまった。逮捕の直後から、マスコミでは堀江批判が繰り広げられているのは周知の通りだ。それまで若手起業家のエースであり、既成の権威に対する批判的な力としてチヤホヤしていた多くの人達が、裏切られたという意識もあってか、一転、手の平を返したように冷たく堀江氏を批判するのを見るのは、何となく、この世のある種のはかなさを見せつけられているようで愉快ではない。が、今日私が諸君に考えて欲しいのは、そういうことではない。

 憲法第31[何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは財産を奪われ、又は、その他の刑罰を科せられない。]

 この憲法の条文から、どうもある人が罪を犯したらしいということになった場合、検察官が、その人の犯罪を裁判の中で立証し、有罪の判決が出た時に、その人は初めて罪人ということになるのであって、そうなるまで被告人は常に無罪と推定されなければならない、ということが考えられている。考えてみれば当然で、そうでなければ、無実の罪で訴えを起こされた人はたまったものではない。

 ところが、なぜか現在は、逮捕されれば、その時点ですっかり罪人扱いであって、「無罪の推定」という原則など、どこへ消えてしまったか分からない、という状況が明らかに生じている。その結果、裁判で、仮に検察官が犯罪の立証に失敗したとしても、その人は罪人としての汚名をなかなか拭い去れないということになる。例えば、その後問題になった京大アメフト部員の強姦事件など、捕まった当人達が容疑を否定しているのに、マスコミも大学関係者もすっかり罪人扱いしているし、或いは、筋弛緩剤殺人事件の守被告は、仮に無罪となった場合、世間は彼をどのように扱うのだろうか?

 この問題について、諸外国がどうであるのか私は知らないが、人権感覚が希薄だとも思うし、お上に対する信頼があまりにも楽天的すぎる、とも思う。自分が変な容疑をかけられた時のことを考えると恐ろしいし、お上が気に入らない人間を排除するのが簡単だ、という意味でも恐ろしい。推定無罪の原則を崩すことによって生じるデメリットの深刻さを真面目に考えれば、有罪判決を待ちきれず、何も慌てて容疑者をいじめることもあるまいに・・・。